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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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2007-09-20-Thu 23:18:37 │EDIT

横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。球団事務所は本拠地の横浜スタジアムの近くにある、関内新井ビル7階(横浜市中区尾上町)。保護地域は神奈川県。2軍の球団名は湘南シーレックス。2軍の本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。練習所及び合宿所は、横須賀市の横浜ベイスターズ総合練習場。

下関・大阪=洋松・川崎時代
元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。

1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。

1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。

1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。

1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。

1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは毎日大映オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。

1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。

1977年、オーナーであった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。


横浜大洋時代
1978年、国土計画の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。これにより川崎時代よりもファンが増加したとされる。この年、国土計画の持つ大洋の球団株式は、クラウンライターライオンズ買収のためニッポン放送とTBSへ2:1の割合で売却された。これより先2001年まで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。

1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋招聘は失敗した。

1982年のシーズン終了間際の試合で、打率1位であった長崎慶一(当時「啓二」)に6厘差で迫っていた田尾安志を5打席連続敬遠し、長崎を首位打者にしたものの、チームとしては先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなど大差で敗れ、その結果田尾の所属する中日ドラゴンズの優勝が決まった。ちなみにこの試合の前は中日と巨人が並んだ状態であり、大洋が勝利した場合は巨人が優勝だった為、巨人ファンからは「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は故意敗退行為だ」と連盟に試合の無効を主張する抗議(結論は却下)が行われ、巨人ファン以外からも「リーグ優勝が決まる試合でチームの勝利よりも個人の記録を優先させるのはどうか」という苦言が集中した。

1985年、近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目されたものの、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。

1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、成績は振るわず。

1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。またこの時、中部藤次郎の死去により、弟中部慶次郎が大洋漁業社長となり、球団のオーナーにも就任した。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。が、中部はかつて大洋漁業の主力事業であった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示し、その結果、愛称は「ベイスターズ」となった。(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もある。)余談だが翌年、訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心であった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしている。


横浜ベイスターズ時代
1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。また、高木豊・屋鋪要・市川和正ら主力選手が大量解雇され、駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。

1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。

1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。しかし、近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。また、鈴木尚典が3番レフトに定着。後のマシンガン打線を構成する主要なメンバーがほぼ出揃った。

1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。

1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。 しかし、勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。 大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。

1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。
 
本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。

2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。

2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、ルールに救われる形で5年連続のAクラス(3位)を確保する(この年の順位に関しては後述)が、これは「日本プロ野球史上最もおかしいAクラス」という声が少なくない。
シーズンオフに親会社(筆頭株主)がマルハからTBS(東京放送)へ移行し、オーナーが当時の社長砂原幸雄となった。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、TBSラジオで巨人戦以外の週末のデーゲームをTHEベースボール・ベイスターズと題して放送を開始した(しかし、同時間帯のレギュラー番組の好調により1シーズンで終了)。

2002年、開幕から低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目であったが、この年限りで事実上の解任となる。

2003年、山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、他球団や他球団のファンからは完全にお荷物扱いされる。

2004年、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退し45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。

2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。

2006年、共に福岡県の東福岡高校出身である村田修一・吉村裕基の台頭があったものの、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、再び底辺をさまよう。球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、またしても2年で監督が交代することとなった。シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁をソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。また、ここ数年毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。さらには、この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が減俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激変のオフとなった。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。

2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。前年FA移籍した門倉健の人的補償として、215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。
1月15日、産業能率大学と業務提携し調印することとなる。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
3月30日~4月13日、開幕から黒星と白星が交互に続く所謂「ぬけぬけ」が12試合続いた。開幕からとなるとこれはプロ野球新記録。

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2007-09-19-Wed 23:23:12 │EDIT

中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。

1リーグ時代
1936年、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。明大の中根之、白系アメリカ人で捕手のハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。日本各地に同様の球団を結成、大日本野球連盟を組織し、独自のリーグを作ろうとしたが失敗。日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)のリーグに加わった。当初の会社名は「株式会社大日本野球連盟名古屋協会・名古屋軍」「株式会社大日本野球連盟東京協会・大東京軍」であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。

1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがあとを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。

慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人・阪神に及ばず、優勝は遠かった。

1942年、戦時下の新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞社として新設。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資し1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を理研工業の傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団に例外なく多くが兵役に駆られ、「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。

1946年リーグ戦再開に伴い中部日本新聞社が経営に復帰。チーム名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。愛称は「中部」(参照)。

1947年のニックネーム導入にあたり、当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から中部日本ドラゴンズに改称。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、またしてもチーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。

1948年に中日ドラゴンズに改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。

1949年、天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。

セ・リーグ加盟後
1951年2月6日より名古屋鉄道が経営参加し名古屋ドラゴンズと改名。8月19日に中日球場が試合中の火災により全焼。(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行う)オフに鉄筋コンクリートで再建。

1953年シーズンをもって名鉄が経営から撤退すると中日ドラゴンズに名前を戻した。

1954年天知監督の下、西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。日本シリーズでも西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、初の日本一。

1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。

1961年、濃人渉監督が就任。ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍により読売に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。

1962年、プロ野球で初めて、元メジャーリーガーのドン・ニューカム、ラリー・ドビーを入団させるが、3位。

1965年~1967年、西沢監督のもとで3年連続2位と健闘するが、惜しくも優勝には届かなかった。

1968年の杉下監督を挟み、1969年から元読売の水原茂監督が就任するが4位、5位、2位と今ひとつ伸びなかった。

1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。監督3年目の1974年、高木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍。読売のV10を阻止しリーグ優勝を果たした。与那嶺監督は1977年まで務めた。

1978年、中利夫監督が就任。初年度は5位、79年は3位とAクラス入りを果たすも、80年は6位と振るわず同年限りで辞任。この年を最後に高木が引退。

 

近藤・山内監督時代
1981年、近藤貞雄監督が就任。1982年には3度目のリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二らの若手を登用。他の野手では大島康徳、田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた

1982年 プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックが点灯。10月18日、横浜スタジアムの大洋最終戦、中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば読売優勝という天王山では小松辰雄の完封勝利によって見事優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退。

1983年、戦力不足からチームは5位に終わり近藤が退任。

1984年、山内一弘監督が就任。初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。 シーズンオフ、星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が当初拒否し、星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。


星野・高木監督時代
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、前年の不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。

1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差をつけられ最下位。7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。ところが翌7月9日以降は50勝15敗3分、勝率.769と驚異的なペースで勝ち進み、10月7日に逆転優勝を果たす。生え抜き監督での優勝は球団史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝いた。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。なお、本来は優勝パレードが予定されていたが昭和天皇の体調悪化により自粛に至った。星野仙一監督は1991年を最後に勇退。

1992年、高木守道監督が就任。12年ぶりの最下位に沈むも、成績は60勝70敗で、優勝したヤクルト(69勝61敗)と9ゲーム差しか離れておらず、この年のセ・リーグは6球団がすべて60勝台という大混戦だった。

1993年は、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。両者とも17勝で最多勝に輝き、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。

1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついたものの、8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。しかし9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に加えて当時の3本柱・槙原、斎藤、桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率と、投打のタイトルを総なめした。

1995年、前年度の優勝を最後まで争っての2位という成績を評価され高木監督が続投。しかし不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。

1996年、星野監督が復帰。ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかり不振に終わる。この年は例の長嶋巨人「メークドラマ」の年であったが、読売があと1勝で優勝という時点で(読売の残り試合はすべて中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。そして10月6日、この試合を含む残り3試合の読売戦に全勝すればプレーオフというところまでこぎつけるが、3試合目で敗れ去り優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜(恐竜)打線”の愛称も一層の定着を見せた。


ナゴヤドーム移転
1997年、ナゴヤドームがオープン。本拠地を移転し新時代の一歩を踏み出す。しかし狭いナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、5年ぶりの最下位に終わる。しかしこの年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が3年振り3度目の最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフにはドームに対応した野球を目指して抜本的な改革が行なわれた。守備力と機動力を確保するためパウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一・久慈照嘉が入団。また韓国ヘテから李鍾範を獲得。更に明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団。以降、中日は打のチームから投手と守備力を活かしたチームへと生まれ変わることになる。

1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。前半戦までは5割付近をさまよっていたが、例のごとく後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに元読売の宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が最優秀防御率、川上憲伸が新人王を獲得した。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。

1999年は珍しく開幕前に本命に挙げられ、期待通りに開幕からいきなり11連勝。昨年度の投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン・リー、落合英二らとともに不動のセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝して一気にゴールテープを切り、見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、無料開放されたナゴヤドームも超満員となり、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは対戦相手の福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、また山崎の欠場が響いたのか1勝4敗で敗れ、敵将・王監督の胴上げを許した。

2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でリードの最終回、エディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。

2001年、4年振りのBクラスに終わる。この年から井端弘和がレギュラーに定着。星野監督が辞任し山田投手コーチが監督昇格。


山田・落合監督時代
2002年、谷繁元信が横浜からFA移籍。福留が松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。チームは読売戦9連敗が響き3位。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。

2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日、東京ドームでの読売戦において立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、山田自身の生真面目な性格から周囲との軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していたにも関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太、川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。また4番打者が流動的(主に立浪、アレックス)で固定出来ず、投手の好投を打線が見殺しにしてしまうケースが目立った。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。

2004年、1988年優勝時の4番打者である落合博満監督が就任。1987年以降の星野カラーを一新し、就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ「オレ竜野球」を見せた。日本シリーズでは、西武に3勝4敗で敗れ、50年ぶり2度目の日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で行われた優勝パレードでは16万人を動員した。

2005年、横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど交流戦前は好調。しかしこの年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には10ゲーム差の2位に終わった。

2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの読売戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦でロッテとも戦うため千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあるからとされている。

2006年ペナントレースでは、投手陣と堅い守り、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で、6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速マジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神タイガースの猛追に遭うものの一度も首位を明け渡すことなく、2006年10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての、いわゆる「完全優勝」であった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し、1勝4敗で敗退。52年ぶりの日本一はならなかった。

2007-09-18-Tue 23:28:48 │EDIT

阪神タイガース(はんしんタイガース、HANSHIN Tigers)とは、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。2005・2006年度ペナントレース実数での観客動員数は12球団の中で唯一300万人を超え最多。阪急阪神東宝グループの系列。なお「Tigers」の英語での発音は「タイガーズ」の方が正しい。

戦前期
1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになったのである。

1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさか-)が発足した。日本運動協会(のち宝塚運動協会)、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。

翌1936年にも、川崎コロムビアの若林忠志(1月9日)や立教大学の景浦將(2月28日)等の有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等とともに日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。


ホームスタジアム・阪神甲子園球場で開かれる公式戦でのファンによる応援の様子1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかったが、開催された3大会でタイガースはいずれも1位を逃した。松木や景浦率いる打線にエース若林といった豪華な布陣を考えれば、これは芳しくない成績であった。

1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が新監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分と抜群の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。

戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に東京巨人に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝いた。

1940年9月、戦局悪化による敵性英語の使用禁止をうけ球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。


戦後期(1946年~1959年)
戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、翌年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入した際、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は

1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、ミスタータイガースと呼ばれた。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。

1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した(ちなみに別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている)。さらに遊撃手・長谷川善三までもが西鉄クリッパースへ移籍。門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍するなど、ダイナマイト打線は崩壊した。

セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。

一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。


2度のリーグ制覇(1960年代)
フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更して、心機一転をはかった。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰監督がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義ヘッドコーチが監督に就任した。

1962年、藤本監督の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目の優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる(シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更)。

1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。


迷走から日本一へ(1970年~1985年)
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手達とミスタータイガース村山監督をそろえたチームは、1964年以来の優勝を期待させた。しかし、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えていた。そのため、1970年2位、1971年5位、1972年2位と期待に応えられなかった。1972年には村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。

1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。試合終了後敗戦に怒ったファンが球場に乱入し、巨人の主力選手に殴る蹴るの暴行を加えるなど混乱した。

1975年、吉田が監督に就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。

1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。

主力級選手の放出獲得を次々と行ったことで批判を浴びた上、1979年以降も最下位は免れたもののチーム成績は低迷が続いた。この間、監督はドン・ブレイザー、1980年途中からの中西太と監督がめまぐるしく交代するがチームは3~5位という状況であった。

1982年、安藤統男が監督に就任。成績は奮わなかったが、戦力が厚みを増し1985年の日本一につながった。

1985年、吉田が監督に復帰。この年は21年ぶりのリーグ優勝を果たすが、それを目前にした8月12日、中埜肇球団社長が日航機墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。結果的にはこの大事件により、阪神ナインは一層奮起したとも言われる。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録(2004年に読売ジャイアンツに破られるまではセ・リーグ記録だった)し、中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をした。1985年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を下し日本一を達成した。同年の最優秀選手(MVP)となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠王という偉業を成し遂げた。1986年にはシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークし、いずれの記録も現在でも破られていない。

また、阪神は1985年の日本シリーズで西武ライオンズ球場では3戦(第1戦、第2戦、第6戦)全勝しており、2005年の交流戦においても(ただし球場名はインボイス西武ドームとなっている)2連勝して20年越しでの所沢5連勝を飾った。


低迷期(1986年~2001年)
日本一になった1985年からわずか1年後の1986年は、掛布の骨折と主軸投手池田の負傷による長期戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位に。

1987年は開幕から不振で最下位となる。さらにコーチ陣との軋轢も加わり、吉田監督は辞任。

1988年、村山監督が復帰。「少年隊」トリオの和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進める。しかし、バースの帰国、掛布の引退などが重なり2年連続最下位。

1989年は新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。シーズン中から監督問題が浮上し、村山監督が辞任。チームは5位となり3年連続最下位は免れた。

1990年、中村勝広監督が就任。ヤクルトを解雇されたラリー・パリッシュを獲得した。5月中盤までは岡田・パリッシュが好調だったが、6月20日に最下位に転落して以降、浮上することはなく最下位に終わる。投手陣もエースのマット・キーオが怪我で退団、先発ローテーションを守った者は5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状だった。

1991年、開幕55試合で15勝40敗という成績不振だった。後半戦は、猪俣隆、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めたが、2年連続最下位。

1992年、不振に陥っていた主砲の岡田に代わり、それまでほとんど実績がなかった亀山努、新庄剛志の両俊足外野手が大活躍(亀新フィーバー)。甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も大活躍し、和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らと共に、ヤクルトスワローズと久々に優勝争いを繰り広げ、2位となる。

1993年には主力選手の故障に加え、外国人枠を巡る「PKO問題」でパチョレックが退団、エース級の野田と交換で獲得した松永も1年で退団するなどで4位に終わった。FAでオリックスから石嶺を獲得。

1994年は新人の藪恵市が活躍しシーズン後半まで首位争いに加わったが、死のロードで脱落し2年連続の4位に終わる。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇し、FAでオリックスから山沖を獲得した。

1995年は開幕から極度な不振が続き、中村監督がシーズン途中で辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも4年ぶりの最下位に終わる。

1996年、藤田監督が就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、新庄や主力選手との確執によりシーズン途中で辞任。2年連続最下位に終わった。

1997年に吉田監督が再復帰。1985年時の強力打線を目指したが、グリーンウェルの途中退団、新庄ら主力選手の不振により5位に終わった。オフに久慈照嘉・関川浩一を中日へ放出し、大豊泰昭・矢野輝弘を中日から獲得。

1998年は、新人の坪井智哉が奮闘したものの、選手の不振により2年振りの最下位。シーズン後吉田監督が辞任。

1999年、「ID野球」の教祖・野村克也監督を招聘して猛虎再生を託した。野村は新庄の投手起用や、伊藤敦規、葛西稔、遠山奬志らの奇抜な投手交代、赤星憲広をはじめとする俊足選手の獲得、エース井川慶(現・ニューヨーク・ヤンキース)、若き主砲濱中治の育成、不逞選手の解雇など手を尽くし低迷脱出を図った。しかし、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、深刻な戦力不足から3年連続最下位に沈むと、沙知代夫人の脱税の責任を取って2001年シーズン限りで退団した。


猛虎復活(2002年~)
2001年オフ、野村の後任監督に中日監督を辞任したばかりの星野仙一が就任。日本ハムからFAで片岡篤史を獲得。

2002年は開幕7連勝と好スタートを切って優勝争いに絡んだが、同年に開催されたサッカーワールドカップの日本開催による変則スケジュール後にバテてしまい、また夏場以降巨人に圧倒され4位に終わった。それでも最下位脱出には成功し、オフにはチームの活性化を目的とした選手の入れ替えを実施して実績のない選手を解雇や二軍へ回す等の血の入れ替えを行い、伊良部秀輝や金本知憲、下柳剛の獲得など積極的な補強を進めた。

2003年は桧山進次郎、今岡誠、赤星憲広、金本知憲、片岡篤史、矢野輝弘、藤本敦士、井川慶ら充実した戦力で開幕より快進撃を続け、稀にみる独走で18年ぶりのリーグ優勝を果たした。その後の日本シリーズでは福岡ダイエーホークスと戦い、金本、桧山、吉野誠らの活躍で10年ぶりに第7戦までもつれ込むなどシリーズを盛り上げたが、惜しくも3勝4敗で敗れた。日本シリーズ終了後に星野は体調不良を理由に勇退し、星野によって招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長として、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一と達川光男、西本聖は退団した。

後任監督に岡田コーチが就任。1年目の2004年は主力選手の不振、更に藤本、安藤、ウィリアムスのアテネ五輪出場による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だった。

2005年は「JFK」(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の頭文字)や「SHE」(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴の頭文字)などの救援陣の活躍や、アンディ・シーツ、金本、今岡によるクリーンナップの安定した成績で、同年導入された交流戦で好成績を収めて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく9度目のリーグ優勝を飾った。しかし日本シリーズでロッテに4連敗を喫してしまった(ちなみに千葉マリンスタジアムで行われた第1試合は7回裏途中(1アウト無走者)で濃霧コールドゲームという珍事が起きた)。この年のオフに、島野の二軍監督就任と木戸克彦二軍監督の退団を発表。

2006年はシーズンの最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝を飾るも、今岡の不振と負傷、久保田の負傷等、主力選手の不振が響いて2位となった。だが1985年(首位)~1986年(3位)以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団史上初の2年連続80勝を達成。2005年から実施された実数での観客動員数も2年連続300万人を超え、1試合平均観客動員数も4万3千人台と何れも12球団一の動員数だった。また交流戦ではロッテに5勝1敗で勝ち越し、昨年の日本シリーズでの雪辱を晴らした。

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