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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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西武ライオンズ

2007-09-14-Fri 23:56:12 │EDIT

西武ライオンズ(せいぶライオンズ、Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。一軍の本拠地はグッドウィルドーム。二軍のチーム名称はグッドウィル。二軍の本拠地は、隣接する西武第二球場を使用する。社会奉仕団体である『ライオンズクラブ』や大京の建設するマンション『ライオンズマンション』との関連は無い。
なお、一軍の本拠地名称と二軍のチーム名称については、2005年からそれぞれ命名権(ネーミングライツ)を採用している。

福岡時代
1949年の2リーグ分裂と共に福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、法人名:西鉄野球株式会社)として創立。パ・リーグに加盟。親会社は西日本鉄道(同社は戦前も西鉄軍を経営していたが、西鉄軍は1943年に解散したため、現在のライオンズとは直接の関係はない)。戦後すぐの球団再建が認められず、2リーグ分裂まで待たねばならなかった。

1951年2月26日、同じく福岡市を本拠地としていた西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズとなる。

1956年~1958年に日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年は稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。この当時の主力には中西太、豊田泰光、仰木彬、高倉照幸らがおり、「野武士軍団」と呼ばれていた。

西鉄最後の優勝となった1963年は南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終戦で奇跡の大逆転優勝を飾る。

1969年に「黒い霧事件」が発覚し池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により大幅な戦力ダウン、それに伴う観客動員数の減少により経営が悪化。本業(交通事業)の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。

1973年にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、新会社「福岡野球株式会社」を設立。ペプシコーラ日本法人(現サントリー)に買収させる案があったが、同年東映フライヤーズが日拓ホームに身売りされ、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。このためペプシへの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発の太平洋クラブと提携し太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-)に、1977年に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携しクラウンライターライオンズ(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と改名を繰り返す。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。

1978年シーズン終了後所沢への移転を発表。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、現球団名となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。


西武黄金時代
1979年に西武ライオンズがスタート。最下位・4位・4位の後、広岡達朗監督の下、東尾修、田淵幸一らを中心とした1982年・1983年に2年連続日本一、秋山幸二、石毛宏典らを中心とした1985年~1988年はV4と栄光の足跡を残した(1986年~1988年は日本シリーズ・3年連続日本一)。

森祗晶監督時代は投打ともに圧倒的な戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦など)が揃い、特に渡辺久信(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲(巨人の王・長嶋のON砲以来の破壊力を誇った)と呼ばれた秋山・清原の打力は他球団から恐れられた。1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は近鉄に2厘差、さらにオリックスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年はヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成し黄金時代を築きあげ、「常勝西武」と呼ばれた。

1993年秋には9年連続30本以上の本塁打の偉業を達成し、攻守走の要として君臨していた秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男、内山智之⇔佐々木誠、橋本武広、村田勝喜の3対3の交換)。森監督は1994年限りで勇退。

1995年、東尾監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、黄金期に終止符を打った。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。

1997年には松井稼頭央や髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。翌1998年も日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、いずれも日本一はならなかった。

1999年には西武ドームが完成、松坂大輔人気などもあり観客動員数増加、ナイター中継増加と世間の注目を集めるも、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸と常勝軍団化以降はワーストとなってしまった。

2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。伊原監督就任1年目の2002年は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝。しかし日本シリーズは巨人に4連敗と大敗を喫した。2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。


伊東監督時代
2004年、伊東監督が就任。これに伴いホーム用ユニフォームが25年ぶりに(微細な変更を除く)一新された。ビジター用の変更は2回あるがホーム用の一新は初めて(ただし球団旗などのロゴは変更なし)。この年導入されたパ・リーグプレーオフで、北海道日本ハムファイターズと福岡ダイエーホークスを接戦の末破り2年ぶり15回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日ドラゴンズに先に王手をかけられるものの敵地ナゴヤドームで連勝し、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。

2004年シーズンオフ、コクドの事業不振に加え、西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も「西武ライオンズ」として引き続き経営されている。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有する方針を固めていた。なお西武グループの再編により、直接の親会社はコクドからプリンスホテルに変わった。

2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(2006年も同日に開催した)。

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