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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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福岡ソフトバンクホークス

2007-09-11-Tue 00:07:27 │EDIT

福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank HAWKS Baseball Club)は、日本のプロ野球の九州地方唯一の球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は福岡Yahoo! JAPANドーム(福岡市中央区)。2軍の本拠地は雁の巣球場(同市東区)を使用している。

戦前
1938年に南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成される。同年3月29日に加盟し、秋季リーグ戦から参加。本拠地は大阪府堺市の堺大浜球場。

1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に西宮球場と甲子園で行われた。戦前のチーム成績は今ひとつではあったが、鶴岡一人、のち松竹ロビンスの主軸・岩本義行、悲劇のエース・神田武夫と実力のある選手がチームを支えた。

1944年の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併。同年6月1日より近畿日本鉄道となり、合わせてチーム名は近畿日本(きんきにほん)へ改称された(かつて存在した大阪近鉄バファローズとは球団としての関係はない)。


鶴岡監督政権
終戦後の1946年、プロ野球再開でリーグに復帰。あわせてチーム名をグレートリングに改名。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(参照)。監督は鶴岡(当時は山本姓)が選手兼任。戦後混乱で物資・食料が不足する中、鶴岡は公私を問わず選手らの面倒をみるなど奔走。機動力を重視した戦術で、プロ野球再開シーズンを球団初優勝で飾った。

翌1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせてチーム名を南海ホークスに改称した。

1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1950年に新本拠地として大阪球場が完成。ようやく自前の球場を確保する。

1951年からリーグ3連覇。戦後より続けてきた機動力野球は、鉄壁の守備力を誇る「100万ドルの内野陣」(一塁・飯田徳治、二塁・鶴岡のち岡本伊三美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助)を生み出した。この頃の南海は「洗練されたプレーで観客を魅了する都会的なチーム」と評された。1955年にもリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズではいずれも読売ジャイアンツ(以下、巨人と省略)に敗れ、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。

機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換。しかしなかなか軌道に乗らず、1956年から3年連続で西鉄ライオンズに苦杯を喫する。

1959年に立教大学から立教三羽烏「長嶋・杉浦・本屋敷」の一人杉浦忠が入団。長嶋茂雄は大学時代から南海に「栄養費」の支給を受けており、入団は確実と言われたが、土壇場のどんでん返しで読売ジャイアンツに奪われる。

1959年に4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たす。この年は打線以上に杉浦忠を中心とする投手陣が強固であり、日本シリーズでは杉浦が第1戦から4連投して4連勝、4勝0敗のストレートで巨人を下し、球団初の日本一に輝いた。大阪市内を巡航したパレードは「涙の御堂筋パレード」と言われた。当時は強豪チームというだけでなく人気も阪神タイガースを凌ぎ関西一であった。

その後、1961年にはリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは巨人に敗れる。しかし、1964年には阪神との日本シリーズをジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、2度目の日本一に輝く。

鶴岡は1965年に一旦辞任するが、後任監督となった蔭山和夫が就任4日後に急死したため復帰、1968年まで指揮を執った。

テレビ野球中継が始まると、南海は人気を背景に高額の放映権料を要求した。また、直接球場に足を運ばなければ意味がないとして、TVの効果を疑問視していた。ところが、TV中継の拡大ともに、系列の日本テレビ放送網による全国ネット中継を行う巨人と同一のセ・リーグである阪神タイガースばかりが放送され、野球人気そのものがセ偏重となり、パの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。かつて南海電鉄が毎日放送の主要株主であった関係から、放映権も毎日放送中心だったが、阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった(ただ、毎日放送との関係は、ダイエーへの身売りまで続いた)。

快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の近鉄・阪急も苦戦続きであった)。


暗黒時代
1969年は飯田徳治が監督に就任したが、投手陣に怪我人が続出したこともあって戦後初の最下位に転落。飯田は1年で辞任し、後任には選手兼任で野村克也が就任。野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを招聘し、現在のID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。野村時代はリーグ優勝は1973年のみだったが、6度のAクラス入りと安定した成績を残した。しかし1977年シーズン終盤に野村が解任されると後を追うように江夏豊・柏原純一もチームを去り、チーム力が大きく低下する。1978年、広瀬叔功が監督に就任。野村カラーの一掃を目指し、「泥まみれの野球」を標榜するも門田博光のアキレス腱断裂などもあり、6位、5位と低迷。

1980年にはドカベンこと香川伸行が入団し、序盤は首位争いを演じるも結局は最下位に低迷し、広瀬は退陣。1981年から1982年は野村監督時代のヘッドコーチであるブレイザーが務め、1983年にはかつてのスター穴吹義雄が二軍監督から昇格。1984年には阪急や近鉄と首位争いを演じるも終盤に10連敗を喫し、優勝戦線から脱落してしまう。さらにシーズンオフ(1985年早々)にはスター候補として期待を集めていた久保寺雄二が急死するアクシデントもあった。1986年に黄金時代のエース・杉浦忠が監督に就任するも長期低迷には歯止めがかからず、川勝傳オーナーが亡くなった1988年にダイエーへの売却が決定した。


福岡ダイエー時代
平和台
1988年11月1日、南海電鉄はホークスの名を残すことと杉浦の留任を条件に、球団をダイエーに売却。関西国際空港開業に伴う難波再開発事業を推し進め、不採算の球団を売却しようとする南海側と、福岡再開発事業の目玉に球団を保有し、九州を核とした商圏拡大を目論んだダイエー側の思惑が一致したためであった。

大阪市では売却に対し反対運動も行われたが(関西地区においても、今でもホークスファンが少なくない。その点に関しては後述)、チームの本拠地は福岡市・平和台球場に移され球団名も福岡ダイエーホークスと改められた。新天地となる福岡は、南海と覇権を激しく争った西鉄ライオンズ(→西武ライオンズ)の本拠地だっただけに、福岡のファンに受け入れられるか心配されていたが、10年ぶりのプロ球団設置に地元では歓迎ムードの方が大きかった。もっとも移転後ダイエーがしばらく下位低迷を続けたこともあり、今のような圧倒的人気という訳には行かずスタンドには空席が目立つことも多かった。また、当時の西武との対戦では西武ファンの割合が多かった。

なお、この年は近鉄バファローズに13勝11敗2分け、オリックス・ブレーブスに12勝13敗1分け、西武ライオンズに11勝13敗2分けと上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位の勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦を演出する立役者となった。さらに準本拠地・北九州市民球場では7戦して全勝(特に最初の主催ゲームとなった4月20日は吉田豊彦の完投で、オリックスの開幕連勝を8で止めている)しており、ファンの間では「北九州不敗神話」と言われた。

1990年から田淵幸一が監督に就任。しかし同年はチーム成績6位、1991年5位、1992年4位と戦力の底上げをすることができず田淵は辞任した。この年を最後に平和台球場から撤退。


福岡ドーム
1993年、根本陸夫が監督に就任。この年、史上初の開閉式屋根を有するドーム球場として福岡ドームが完成するも、新本拠地での初年度は、打線がホームゲーム60試合でわずか18本塁打しか打てず、また投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。これで南海時代の1978年からこの年まで16年連続シーズン負け越しで、これは国鉄スワローズの15年連続(1962年~1976年)を更新した日本プロ野球ワースト記録である。現状打破に向け、同年11月に佐々木誠・村田勝喜・橋本武広との交換で、西武ライオンズから秋山幸二・渡辺智男・内山智之を獲得。当人同士は勿論の事、両チームの監督やオーナーなどにも正式発表まで知れ渡らなかった、水面下での大型トレードを成立させ、日本中を驚かせた。

1994年、初めて優勝争いに加わり、阪神よりFA移籍の松永浩美、カズ山本、ケビン・ライマー、秋山幸二という重量打線で快進撃を見せるも、わずかの差でAクラス入りを逃し4位に。しかし、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した(最終的に貯金が9もありながらBクラスという信じ難い結果で終わる)。同年オフのドラフト会議では、駒澤大学の進学に内定していた城島健司を1位指名した。また、FAで西武から石毛宏典・工藤公康も移籍。西鉄時代の本拠地だった関係で、当時の福岡にはライオンズファンも多かったが、ライオンズから多くの主力選手を移籍させることにより、これらのファンをホークスファンとすることに成功した。

1995年、王貞治が監督に就任。大物助っ人・ケビン・ミッチェルも加入するなど実績のある選手が揃い、一気に優勝への期待が高まったが、故障者続出などにより5位に終わる。

1996年5月9日に日本生命球場で開催された近鉄バファローズ戦で敗北した後、日頃の采配を疑問視されていた王の乗ったバスに、ファンから生卵をぶつけられるという事件が発生した(後述)。この年は大不振で、この日で9勝22敗と大きく負け越しており、結局最下位に終わった。なお、本試合は同球場最後のプロ野球公式戦であった。また、この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島東洋カープが保持していた連続Bクラス日本記録(1950年から1967年までの18年)を更新した。

1997年、日本ハムファイターズと同率の4位に終わり、20年連続Bクラスでかつ4位以下。連続4位以下の記録は近鉄バファローズの1950年から1968年までの19年連続を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。

1998年、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる。ただし前年度(1997年)の順位がオリックスの2位に対しダイエーは4位だったため、翌1999年の本拠地開幕権を獲得できなかった。

1999年、福岡移転後初のリーグ優勝。このとき、シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り、史上初の珍事かと話題になったが、最終的には総得点が上回った。さらに日本シリーズでは星野仙一率いる中日ドラゴンズを4勝1敗で下し、日本一。キャプテン秋山幸二が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得。秋山は西武時代の1991年にも日本シリーズMVPを獲得しており、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。球団の地元、北部九州地区でRKB毎日放送で中継された1999年10月28日の第5戦は、ビデオリサーチ調べで平均視聴率47.1%(RKB毎日放送史上1977年・1978年の日本レコード大賞に次ぐ歴代3位)、瞬間最高視聴率71.6%という驚異的な数字を記録した。

2000年、リーグ2連覇。日本シリーズは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツとの対戦で「ON対決」と騒がれたが、2勝したのち4連敗で敗れた。またシリーズ直前、藤井将雄投手が肺癌のため急逝。

2002年5月14日と5月15日、台湾の台北市立天母棒球場で行われた対オリックス・ブルーウェーブ戦で、日本のプロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が興行された。しかしその後失速、優勝した西武に16.5ゲーム差をつけられる惨敗を喫する(台湾での蒸し暑い気候から一転、次のカード(長野)の気温1ケタ間近という寒さの中での試合が、多くの選手に同時に不調をもたらした原因ではないかと見られている)。同年、秋山が現役引退。

2003年、前年まで21年連続で負け越していた西武にも勝ち越し、リーグ「完全優勝」(全球団への勝ち越し)を達成。その後、阪神タイガースとの熾烈な日本シリーズを制し、4勝3敗でダイエーホークスとして2度目(南海時代から数えて3度目)の日本一を達成した。また、史上初の100打点の選手が4人(井口資仁、松中信彦、城島健司、ペドロ・バルデス)の「100打点カルテット」が活躍した。

2004年はシーズンを1位で通過しながら、同年から導入されたプレーオフで西武の前に2勝3敗で敗れ、優勝を奪われた。レギュラーシーズンの活躍と打撃三冠王を評価されてチームの主砲松中信彦がリーグMVP、抑え投手として活躍した三瀬幸司が新人王に輝き、ベストナインにも4名が入った。

2004年10月、秋山が2軍監督(現1軍野手総合コーチ)として球団復帰。


球団売却
2004年10月13日、ダイエーが自主再建を断念し、産業再生機構への支援を要請。機構側が「国営ホークスになることは無い」と語ったことから球団の売却が濃厚になる。11月30日、ソフトバンクが球団を総額200億円で買収することなどを正式発表。同日付でNPB(日本プロフェッショナル野球組織)への加盟申請を行った。12月24日、加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーの保有する球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正前オーナーが継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることになった。これと同時にソフトバンクとホークスタウンは、営業譲渡と合わせ20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また同日付けでコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結することで合意した。
同日、ソフトバンクは新チーム名福岡ソフトバンクホークスとロゴマークを発表。また、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌などについてもダイエー時代とほぼ同じものを採用することを合わせて発表した。


福岡ソフトバンク時代
2005年1月28日、ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また監督の王貞治が球団の取締役副社長兼GM(ゼネラルマネージャー)に就任することも発表された。

新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもの。チームロゴに挿入されている黄色の2本線は親会社・ソフトバンクのCIロゴをアレンジした。また、大リーグ通算214本塁打を誇り、独特のオープンスタンスで日本でも有名なトニー・バティスタを新球団の目玉として2年総額1500万ドル(約15億8000万円)で獲得。

2005年1月30日、新チームお披露目・ファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われた。このイベントで初めて新ユニフォーム・新応援歌・2005年のスローガンなどが発表された。「中高年が少年のような顔をして歌っているのを見て、これを変えたら暴動が起きるなと思った」とオーナー・孫正義が語ったとおり、応援歌は歌詞などの一部最小限を改定した(『ダイエー』の部分を『ソフトバンク』に変えた)のみでそのまま引き継がれた。このイベントは有料だったが、入場料は全額がスマトラ島沖地震・新潟県中越地震の被災者を支援するための義援金に充てられ、孫オーナー自らもこれと同額の義援金を送ることを発表した。

2005年3月9日、6月28日と6月29日に予定されていた千葉ロッテマリーンズ戦の韓国開催が、ソウルで試合ができなくなったことと韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合であったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。

2005年シーズンの開幕直後はロッテに先行を許したものの、交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は1度も転落することなく、レギュラーシーズンを89勝(勝率.664)という好成績で2位ロッテに4.5ゲーム差を付けて1位で通過した。しかし、プレーオフで1勝のアドバンテージを得るための条件「5.0ゲーム差以上」にはわずか0.5ゲーム届かなかった。また、城島の負傷離脱、松中の不振が最後まで響いた形となり、プレーオフでは2勝3敗で敗れ、またしても優勝を逃した。プレーオフ#同一の組で再度決定戦を行うものを参照。シーズンオフ、バティスタが退団、城島がシアトル・マリナーズへFA移籍。

2006年7月5日、福岡Yahoo!JAPANドームでの西武戦後、王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表。翌日から一時チームを離脱した。監督代行は森脇浩司チーフコーチが務めた。

2006年のプレーオフではレギュラーシーズン3位から第1ステージを制し勝ち上がるが、レギュラーシーズン1位の北海道日本ハムファイターズに2連敗を喫し、3年連続のプレーオフ第2ステージ敗退となった。シーズンオフ、ホルベルト・カブレラが退団、フリオ・ズレータがロッテへ移籍。ヤクルトを自由契約になったリッキー・ガトームソンを獲得。小久保裕紀がFA移籍で巨人から復帰、寺原とのトレードで横浜ベイスターズから多村仁を獲得。これにより、3番多村、4番松中、5番小久保の『和製大砲』が完成。同時にこれは『TMK砲』とも呼ばれる。

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