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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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千葉ロッテマリーンズ

2007-09-13-Thu 23:58:13 │EDIT

千葉ロッテマリーンズ(ちば-、Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は千葉マリンスタジアム(千葉県千葉市美浜区)。二軍の本拠地はロッテ浦和球場(埼玉県さいたま市南区)。

「毎日」時代
1949年、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちおりおんず)が結成された。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム・大毎野球団を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大毎野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。

リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請するが、ライバル社であった読売新聞社(読売ジャイアンツ親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズ親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、電鉄系を中心とした毎日加盟賛成派の球団による太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)が結成されるという「2リーグ分立騒動」に発展した。

この騒動の中、大阪タイガース(現・阪神タイガース)から毎日に数人の選手が移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻したタイガースに対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。

かくして1950年のパ・リーグ公式戦開始より参戦。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前タイガース監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握した)、別当薫、呉昌征、本堂保次、土井垣武ら移籍組に加え、前年の都市対抗野球を制した別府星野組のエース・荒巻淳や野村武史ら投手が活躍。

創設1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを圧倒し、初代プロ野球日本一の座を射止めた。

1952年7月、福岡・平和台球場に乗り込んでの対西鉄戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。責任を取り湯浅総監督、若林監督が更迭される。以後チームは低迷。

ちなみに毎日オリオンズ時代のユニフォームはホーム用がヤンキースタイプで、ビジター用がドジャースタイプだった(毎日オリオンズ時代のユニフォーム)。


「大毎・東京」時代
1957年シーズンオフ、成績が低迷していた大映野球・大映ユニオンズを吸収合併し毎日大映球団・大毎オリオンズ(だいまい-)と改称。大映社長の永田雅一がオーナーに就任。

1950年の優勝以後、西鉄と南海に水をあけられていたが1960年に2度目の優勝を遂げる。この年監督に就任した西本幸雄のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾るが、日本シリーズ対大洋ホエールズでのバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた。
なお、この年を以って毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が完全に球団経営を掌握する事になる。

1962年より本拠地は永田が私財を投じて東京・南千住に建設した専用球場・東京スタジアムに移転。

1964年、チーム名を東京オリオンズ(とうきょう-)に改称。マスコットに「桃太郎」を採用した。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていない事に永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(その後「東京」を名乗った球団に東京ヤクルトスワローズがある)。
だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため毎日側が不快感を示し、結局この年のシーズンを最後にオリオンズへの支援を打ち切った。経営権は完全に永田側に移譲されたが、正式球団名は「毎日大映球団」を維持した。またこれまでのスポーツニッポンに代わり、東京スポーツが関連新聞となる。


「ロッテオリオンズ」時代
1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、チーム名をロッテオリオンズに改称。ただ正式な球団買収ではないので球団の経営は従来どおり毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。

1970年パ・リーグ優勝。東京スタジアムでの優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。日本シリーズは読売ジャイアンツに敗れる。

1971年1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、正式球団名もチーム名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。

本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局1972年シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京スタジアムは閉鎖され、本拠地球場を喪失した。

1973年から、仙台市宮城野区の県営宮城球場(現在のフルキャストスタジアム宮城)を暫定的に本拠地とし(1974年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(この期間の詳細については後述。また歴代本拠地も併せて参照)。

1973年、日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは日本ハムに売却される事になった(現北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズの経営に参画するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。

1974年に金田監督の下で有藤道世、山崎裕之、弘田澄男、投手では成田文男、村田兆治、木樽正明らが活躍しリーグ優勝・日本一。この時の日本シリーズ(対中日)主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフ(いずれも阪急戦)は宮城で開催された)。また日本一を決定した後の凱旋パレードも、東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。

1977年、神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、既に横浜への移転が内定していた大洋ホエールズと共に本拠地として使用できるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンからの川崎移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。

1978年から本拠地は川崎球場に落ち着いた(宮城球場では引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)。観客動員は少ないながらも1980年の張本勲の3000本安打、1985年~1986年の落合博満の2年連続三冠王、1988年10月19日ダブルヘッダーの死闘(第1試合は近鉄勝利、第2試合は引き分け。西武のV4が決定)などはチームはもちろんパ・リーグ全体に大きな光をもたらした。

1987年から女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。

1989年、二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から、埼玉県浦和市のロッテ浦和球場に移転。その後1998年には現在の球団寮が竣工した。

1991年に内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句にファン拡大作戦を実施した。


「千葉ロッテマリーンズ」時代
1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズに決定した(英語でMarinesは、海兵隊を意味することがある)。

1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まされることとなる。

1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。

1995年のシーズンは10年振りのAクラス入りを果たす貯金10の2位で終了。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、当時監督であったボビー・バレンタインが広岡達朗GMとの確執から解任される。

バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも5位に沈み、広岡・江尻ともにこの年限りで辞任。

1998年にはプロ野球記録となる18連敗を喫し話題となる。この記録は大東京軍(現在の横浜ベイスターズの前身)が1936年に16連敗を記録して以来62年間破られていなかった。当時の監督は近藤昭仁で、1998年シーズン終了後の監督退任会見では「今度やるときはもっと強いチームでやりたい」と発言し、物議をかもした。

その後山本功児が1999年に2軍監督から昇格、現在の投手王国の形成、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった。しかし、この山本功児が監督のころにドラフトで獲得した渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入りに大きく貢献している。

2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌2003年のキャンプ中に家庭事情等により退団というアクシデントにも見舞われる。


第2次バレンタイン監督時代
2004年、バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着に白いパンツ)を採用。プレーオフ進出を後一歩のところで逃すも勝率5割を記録した。


2005年
2005年は開幕から前年に引き続き今江敏晃、西岡剛(現TSUYOSHI)が台頭し、好スタートをきる。上位から下位までつながる打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。

2005年から導入されたセ・パ交流戦(インターリーグ)では初代チャンピオンとなる。(毎日時代の初代日本一に続いて2つめの初代王者の称号となった)

この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic(奇跡無用)! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。

8月17日の西武ライオンズ戦に勝ち10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。

8月28日の対オリックス・バファローズ戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスが確定した。

9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。

10月26日からの日本シリーズでは阪神タイガースを4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。この優勝によって「優勝から最も遠ざかっていたチーム」の汚名を返上した。

11月10日から東京ドームで行われた初めてのアジアシリーズに出場。初戦で李の古巣である三星ライオンズ(韓国代表)を6-2で下すと翌日は興農ブルズ(台湾代表)に12-1の7回コールド勝ちを収め、ロッテOBのジム・ラフィーバー率いる中国棒球協会選抜チーム(通称チャイナスターズ、中国代表)との対戦を待たずに決勝進出を決めた。チャイナスターズ戦は3-1で勝利し、決勝では三星を5-3で下して勝利、1・2軍合計で年間6冠の完全優勝を達成した。

このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代の日本シリーズ・セパ交流戦・アジアシリーズと3つの初代王者の称号を手に入れた事になる。

また11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。


2006年
2006年はバレンタイン野球の主力だった小坂誠と李が読売ジャイアンツへ、ダン・セラフィニがオリックスへ移籍した。また新たにオリックスからケビン・バーン、トライアウトで瑞季を獲得した(但し両選手とも同年オフに退団)。

開幕直前に開催された2006 ワールド・ベースボール・クラシックに9人の選手を送り込んだ。

交流戦では6月19日に東京ヤクルトスワローズが東北楽天ゴールデンイーグルスに2-4で敗れたため、2年連続して最終戦で交流戦での単独優勝を決定した。

夏場以降チームは急失速し、結局シーズンを4位で終えプレーオフ進出を逃す。


2007年
3月24日の開幕戦(千葉マリンの日本ハム戦)が降雨コールドで引き分けに終わり、パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事となる。翌日も延長12回で引き分け。開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。

 

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