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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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オリックス・バファローズ

2007-09-12-Wed 00:00:38 │EDIT

オリックス・バファローズ(Orix Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。2軍の球団名はサーパス(本拠地はあじさいスタジアム北神戸)である。

阪急軍時代
1936年阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)が大阪阪急野球協会(おおさかはんきゅうやきゅうきょうかい)を設立し球団名阪急職業野球団(はんきゅうしょくぎょうやきゅうだん、阪急軍とも)が発足(阪急の小林一三社長が、阪神電鉄の球団大阪タイガースに対抗し結成した。企業名を冠する最初の球団であった)。六大学野球のスター選手である山下実、宮武三郎らを集めて結成し、本拠地を暫定的に宝塚球場とした。なお、阪急はこれ以前に宝塚運動協会というプロ野球チームを所持していた。

1937年西宮球場完成に伴い西宮に移転。

戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946年のリーグ戦再開には参加。


暗黒時代
1947年のニックネーム導入に際し、まず「熊」をイメージした阪急ベアーズ(Bears)と改称するが、オープン戦で負けが続き、bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があることも判明、縁起をかつぐ意味もあって4月18日に阪急ブレーブス(Braves)と改める。「ブレーブス」のニックネームは公募で決まったが、これはアメリカメジャーリーグのボストン・ブレーブスに由来している。こちらの意味は“勇者”。

1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。ところがこの時に捕手の日比野武・楠協郎・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。

1952年、西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。このころより、梶本隆夫、米田哲也といった名投手2人を擁するもののチームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。

1963年には球団史上初となる最下位に転落した。


黄金時代
1967年、西本幸雄監督の下で長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍、リーグ初優勝。

1967年~1969年、1971年、1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツを倒すことができなかった。

1975年、2シーズン制で、阪急は前期優勝、後期最下位という成績。プレーオフで近鉄バファローズを3勝1敗で下したものの通年成績は64勝59敗7分、勝率.520で史上最低勝率でのリーグ優勝となった(それまでの最低記録は1973年読売ジャイアンツの66勝60敗4分、勝率.524)。

日本シリーズに出場し上田利治監督の下、山口高志、山田久志、加藤英司、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムス、福本豊らの活躍でセ・リーグ優勝チームの広島東洋カープを4勝2分け無敗で下し、初の日本一に輝く。このシリーズでMVPに輝いた山口高志の剛速球はプロ野球史上最も打ちにくい球だったと言われ、現在でも語り草になっている。それ以降、1977年まで3年連続日本一、1978年まで4年連続リーグ優勝を達成。「王者ブレーブス」と呼ばれ球団の黄金期となる。

1976年、史上初めて前後期ともに優勝し、プレーオフを戦うことなくリーグ優勝を決めた。

日本シリーズでは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと対戦。3連勝の後3連敗で窮地に追い込まれたが、迎えた第7戦では敵地後楽園の熱気溢れる満員のジャイアンツファンの大声援を敵に回しながら、ベテラン足立光宏の粘りのピッチングにより4対2で勝利し、ついに念願の「ジャイアンツを倒しての日本一」を達成した。

1977年、前期は優勝。後期は追い上げわずかに及ばずロッテオリオンズに0.5ゲーム差の2位だったがプレーオフを3勝2敗で制しリーグ3連覇。

2年続けての対戦となった読売ジャイアンツとの日本シリーズでは力の差を見せつけ4勝1敗で圧倒した。球団がオリックス・ブルーウェーブとなった後の1996年も含め、「長嶋ジャイアンツ」とは日本シリーズで3度対戦し、いずれも勝利を収めている。

1978年、2年前同様に前後期連続制覇を達成しているが、これは10年間続いたパ・リーグの2シーズン制ペナントレースの中で、阪急だけが達成した快挙である。

日本シリーズでは広岡達朗率いるヤクルトスワローズと対戦したが3勝4敗で敗れシリーズV4は果たせなかった。またこのシリーズ第7戦では、ヤクルトの主砲大杉勝男の放ったレフトポール際に切れたかに見えた飛球を、セリーグ富沢審判がホームランと判定し、上田が1時間19分の猛抗議を行った。

1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは反対に、球団経営は悪化した。

1982年、西宮球場のスコアボードが関西初の電光掲示板となり「アストロビジョン」として親しまれた。

1984年、75勝45敗10分で2位ロッテオリオンズに8.5ゲーム差を付けて優勝したが、これが「阪急」としての最後の優勝となった。

ブーマー・ウェルズが打率.355、本塁打37、打点130の成績で外国人選手として初の三冠王に輝いた。

1986年、球団創立50周年を迎え、ファンサービスの強化や戦力の充実により観客動員が伸び、関西パ・リーグ球団で初めて100万人を超える動員(114万5000人・球団発表)を記録した。惜しくも優勝は逃したが、ストッパーとして活躍したアニマル・レスリーが咆哮パフォーマンスで全国的な人気を集めた。

1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。黄金期を支えた福本、山田もこの年限りで引退した。

1989年、チーム名をオリックス・ブレーブスに改称。オリックスブルーとブレーブスゴールデンイエローを基調にしたユニフォームとなる。阪急側からの球団譲渡の条件を満たすため、その後2年間は「ブレーブス」の愛称と西宮球場の使用が継続された。

1988年に完成した神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を準本拠地とすることも発表された。完成した1988年は5月の対南海ホークスとの1試合のみだった主催試合がこの年は14試合、1990年も13試合組まれた。当初1989年はダイエー戦は13試合を全て神戸で行う予定だったが、雨天中止のため2試合は西宮で行われた。

ホークスから移籍の門田博光を加えたブルーサンダー打線が登場。規格外の打棒が注目を集めた。打線に引っ張られたチームは開幕から突っ走ったが夏場の投手陣の崩壊により激落。優勝した近鉄にゲーム差なしの2位で涙を飲んだ。


ブルーウェーブ時代
サブ本拠地・神戸総合運動公園野球場(撮影当時Yahoo!BBスタジアム(2003年))1991年、神戸に本拠地を移し、一般公募により愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。上田利治の監督退任などで「脱阪急化」路線が進んだ(上田の後任監督は神戸出身の土井正三)。

1992年、田口壮、イチローが入団。後の黄金時代への礎となった。ただ両者ともに土井正三監督の指導には合わず、実力を発揮するのは数年後になる。

1994年、仰木彬が監督に就任。有望な若手選手の成長と名将の就任でチームには明るいムードが漂った。イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録(その後2000年に自らが更新)。このイチローの活躍は社会現象となり、その功績に対してオフには正力賞が贈られた。イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり(最終順位は2位)観客動員も球団新記録を大幅に更新した。

1995年、1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催は不可能かとも言われた。しかし球団を挙げて被災地復興の一躍を担いたいという強い思いのもと、神戸でのペナントレース実施に踏み切った。準備不足が懸念されたが「がんばろうKOBE」を合言葉に戦いを挑むチームは目の色が違った。4月19日には野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成。6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースを独走した。7月末に早くもマジック点灯。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、完膚なきまでに叩きのめした。8月26日には佐藤義則が史上最年長でのノーヒットノーランを記録。「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日には球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援によりチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。

1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたが、覇者の貫禄をみせて9月上旬には逆転、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決にイチローのサヨナラ安打で勝利を収めてリーグ2連覇、「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでは巨人を4勝1敗で倒し、地元神戸で日本一に輝いた。観客動員数は過去最高の179万4000人を記録。

2000年、2軍の独立採算を目指し、2軍のチーム名をサーパス神戸とする。

シーズンオフにイチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。これ以降、主力選手の移籍が相次ぎ、チームは急速に弱体化していく。

2001年、4位に終わり、仰木が勇退。

2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と投高打低に陥り39年ぶり2度目の最下位。

2003年、石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が崩壊し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録し2年連続最下位となる。

本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。

2004年、前年まで西武ライオンズを率いた伊原春樹を監督に招聘、村松有人をFAで獲得、阪神で実績を残した投手ムーアを獲得するなど積極的にチーム改革に挑むも投手陣の崩壊(防御率5.65)は止まらずに3年連続最下位。近鉄との球団統合もあり、伊原もこの年限りで辞任する。

9月、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年~1992年:近鉄監督、1994年~2001年:オリックス監督)が監督に復帰。史上最年長・69歳の監督としてデビュー(2005年4月29日に70歳の誕生日を迎え、史上初の70歳台の監督となった)。


バファローズ時代
2004年、12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった。球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。

近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになった(球団事務所は2006年オフに大阪市に移転した)。

ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、同じく神戸も本拠地に据えながら、両球場共に30試合余りを開催。2005年、Yahoo!BBスタジアムはネーミングライツ契約切れとソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、スカイマークスタジアムに改められた。

2005年、合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰により、チームの成績は前年最下位から、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをした結果4位でシーズンを終える。

仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に逝去)。2006年から中村勝広GMが監督に就任。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。

12月19日、プロ野球実行委員会はオリックスの専用球場を2006年度からスカイマークスタジアムに変更する事を承認した。しかし、大阪ドームとのダブルホームタウンの変更はせず、双方の球場で34試合ずつを主催する。その後オリックス(正式には子会社のオリックスリアルエステート)が大阪ドームの施設を買収する方針を固めた。

2006年、8月27日、日本ハム戦敗戦で、7年連続Bクラスが確定。

9月27日の最終戦終了後、成績不振の責任を取って中村勝広監督が辞任した。52勝81敗3分けの5位、勝率.391に終わった。

10月6日、元エンゼルス監督で、ドジャース育成部長であるテリー・コリンズが新監督として就任すると球団が発表。

11月20日、これまで神戸市(神戸総合運動公園野球場内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転し、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)をここに集約。なお神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小する。

2007年、オフには東京ヤクルトからグレッグ・ラロッカを、入団テストでは大阪近鉄・巨人で主砲として活躍したタフィ・ローズを獲得。ローテーションの一角だった前川勝彦が不祥事による懲戒として解雇処分。球団と契約更改で交渉決裂した中村紀洋が中日へ移籍。そしてブルーウェーブ時代から主力選手だった谷佳知も巨人に移籍した。このようなトラブル及び選手の流出が相次ぎ、今シーズンも大苦戦が予想されていた。

2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。

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