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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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2007-09-16-Sun 23:52:47 │EDIT

東北楽天ゴールデンイーグルス(とうほくらくてんゴールデンイーグルス、Tohoku Rakuten Golden Eagles)は、2005年からパシフィック・リーグに参入した日本のプロ野球球団。通称は楽天イーグルス、東北楽天。球団運営会社は、株式会社楽天野球団。

球団設立
大阪近鉄バファローズの合併計画によるプロ野球再編問題 (2004年)の流れの中で、2004年9月に日本プロフェッショナル野球組織の加盟料撤廃(代って預かり保証金制度を実施)の決定を受けてプロ野球チームの設立を提案。9月24日に宮城県をフランチャイズ(地域保護権)とする新球団の加盟を申請した。同年10月22日に新球団のチーム名を東北楽天ゴールデンイーグルス(通称:楽天イーグルス)とすることと、初代監督に田尾安志が就任することを発表した。このときライブドアベースボール(呼称:仙台ライブドアフェニックス)も加盟申請を行っていたが、同年11月2日のプロ野球オーナー会議で楽天のみの参入が正式に承認された(プロ野球の新規参入球団は1954年の高橋ユニオンズ以来50年ぶり)。

結成時の選手構成はオリックス・ブルーウェーブ及び大阪近鉄バファローズに属していた選手を中心とし、参入して初めてのドラフトでは、明治大学の一場靖弘を自由獲得枠で獲得。他、即戦力選手を6名獲得した。東北にゆかりのある選手には5巡目指名の塩川達也(東北福祉大学)がいた。

宮城球場、並びに2軍チームの命名権を公募。その結果球場の命名権を人材派遣会社のフルキャストが取得し、フルキャストスタジアム宮城と命名された。また、1軍練習場としてフルスタと同じ宮城野区にあるJT硬式野球部(2004年休部)の施設(JT球場など)を活用することを検討していたが、交渉がまとまらず断念した。

2軍本拠地は当初、1軍と同じ仙台市で申請されていたが、施設探しに難航した結果、誘致に積極的だった秋田県秋田市ではなく、山形県東村山郡中山町に置かれることになった。練習場は天童市にある山形県総合運動公園の野球場を改築対応し、合宿所や室内練習場も整備する計画だったが、選手の大半が宮城県在住(自宅購入、マンション賃貸、ホテル住まい)で、また選手の1・2軍入れ替えも頻繁であるから必要性に疑問があるとしてそれらの計画を白紙に戻した(但し2軍本拠地の変更はしない)。

フルキャストスタジアム宮城から山形県野球場までは、全線一般道利用で70km程、高速道路経由では83km程(東北自動車道・仙台宮城IC~山形道・寒河江IC:71km、2050円(ETC の通勤割引で半額になる))。

フルキャストスタジアム宮城から山形県総合運動公園までは、全線一般道利用で60km程、高速道路経由では75km程(東北道・仙台宮城IC~山形道・山形北IC:60km、1750円(ETCの通勤割引で半額になる))。

また2006年、泉区に練習グラウンド・室内練習所・合宿所が完成。グラウンドサイズはフルスタ宮城と同じ両翼101.5m、中堅122mの全面人工芝で、地元・宮城県を基盤とした家電販売のデンコードーと命名権契約を結び「デンコードースタジアム泉」となった。当球場ではイースタン・リーグの試合は行わず、主として教育リーグや練習などが中心となる予定。

チーム名が「東北楽天」でありながら、球団発足の2004年当時に東北地方で人気が高く、ファンの入団希望も多かったダルビッシュ有(東北高→北海道日本ハムファイターズ)や佐藤剛士(秋田商業高→広島東洋カープ)といった東北地方の高校出身選手の獲得に動かなかったことから「東北新球団への期待を裏切られた」との声もある。当然、興行的にはダルビッシュなどは喉から手が出るほど欲しかったが、獲得資金の問題や新規参入球団ゆえ練習場や2軍施設に難があり、球団創設当初の楽天では高校を卒業したばかりの選手をきちんと育て上げられない事情があったことから、即戦力新人重視の補強、大学・社会人出身選手、または他球団からの移籍選手がチーム編成の中心になった。

新規参入決定直後の秋期キャンプは白地に楽天のロゴが入ったジャージを着て藤井寺球場で行われた。その際、「近鉄の後継球団として大阪のファンも大切する」との理由で宮城県よりも先に選手のサイン会が開催された。

2005年度のオープン戦は宮城球場の全面改装工事の実施の関係からホームゲーム(主催試合)は行わず、全試合(17試合)ビジターゲームで開催された。

2006年からは「楽天イーグルスTV」(公式サイト)でホームゲームを中心に試合を無料で生中継している(シーズン当初は楽天会員登録しなくても良かったが、現在は登録が必要)。


2005年シーズン
開幕戦は千葉ロッテマリーンズとの対戦(千葉マリンスタジアム)。先発・岩隈久志の好投により3-1で初勝利。新規参入球団が既存球団を相手に初戦で勝利を収めたのは、楽天が初めてであった。

第2戦は0-26の記録的大敗。

この記録は1946年7月15日に、ゴールドスターがグレートリング戦で0-26の完封負けを喫した試合と並んで、1試合最多失点完封負けのタイ記録。またこの試合では渡辺俊介に1安打1四球と抑え込まれ、且つそのランナーをともに併殺で潰したため、27人で攻撃を終了した。

4月15日の日本ハム戦(東京ドーム)から11連敗。このため4月30日を以てマーティ・キーナートGMをチームアドバイザーに(GMのポストは当面空席)、また山下大輔ヘッドコーチと駒田徳広打撃コーチを2軍にそれぞれ降格にするなど、コーチングスタッフを大幅に入れ替えた。

本拠地フルキャストスタジアム宮城での日本ハム戦の初戦は、7月2日となった。

理由は、4月5日・6日の日本ハム2連戦を地方(福島・いわき。そのうち福島では後述のようなアクシデントも発生した)で行い、5~6月にセ・パ交流戦が行われたため。しかしSHINJO効果、さらに日本ハムには江尻慎太郎、金村曉、ダルビッシュ有と宮城県に縁のある選手がいるなど様々な要因が重なり、初戦の観客動員数は開幕以来最高を記録し、北海道・東北の最北同士の両チームは「北国ダービー」と呼ばれフルスタの人気カードになった。

7月は有銘兼久のチーム初完封勝利(31日・対西武ライオンズ戦)もあって10勝9敗1分けと初の月間勝ち越しを記録した。

8月9日からは2度目の11連敗を喫した(シーズン2度の10連敗以上を記録したのは1989年の横浜大洋ホエールズ以来。パ・リーグでは3度を記録した1961年の近鉄バファローズ以来)。

8月29日、日本ハム戦(宮城)に敗れたことによりシーズン最下位とパ・リーグ全球団への負け越しが決定した。8月中に最下位が決まったのは1952年、8月20日に決まった近鉄以来53年ぶり。この時点での成績は33勝84敗1分、8月の月間成績は3勝21敗だった。

9月25日のホーム最終戦終了後、田尾安志監督のシーズン終了を以っての解任が発表される。

9月28日、全日程終了。38勝97敗1分(勝率.281)で5位(北海道日本ハムファイターズ)と25ゲーム差、レギュラーシーズン首位のソフトバンクからは51.5ゲーム差付けられる断トツの最下位に終わった。

2005年12月26日に宮城県から1440万円の支援金の交付を受ける。


2006年シーズン
前任の田尾安志に代わり、野村克也を監督として招聘。弱者の戦略として「無形の力を養おう!」をスローガンに掲げ、チーム力の育成を図った(無形の力とは、目に見える技術を有形の力とし、それに対して目に見えない力、すなわち判断力や観察力等の頭脳面を指す)。

2006年は補強を進め、西武ライオンズからホセ・フェルナンデス、2003年に千葉ロッテマリーンズで活躍したリック・ショートなどを獲得。

オープン戦で初めての主催試合を開催することが決定したが、フルスタ宮城での開催は2005年同様に改修工事実施のため組まれず、倉敷マスカットスタジアム・香川県営野球場・静岡県草薙総合運動場硬式野球場(静岡のみ2試合)の3球場・4試合で行われた。

前年9勝を挙げた岩隈久志、また前年横浜ベイスターズで7勝のセドリック・バワーズが開幕1軍から外れたため、北海道日本ハムファイターズとの開幕2連戦では前年2勝の一場靖弘と新外国人のインチェが先発するという苦しい投手事情もあり、開幕から5連敗を喫する。

この年からホーム用の交流戦専用ユニフォーム(”E”のマークが前面左上部に付きその下に小さく”RAKUTEN”と書かれた、袖がクリムゾンレッド〈というか紫みが入った紅色の〉ラグランスリーブ)でセ・パ交流戦に臨む。

5月25日、神宮球場で行われた東京ヤクルトスワローズ戦でリック・ガトームソンから交流戦初のノーヒットノーランを喫する。

6月16日からの巨人との3連戦で史上初の4カード連続勝ち越し。交流戦も最終的には17勝19敗で12球団中7位(日本ハムと同率)で終わった。

6月28日の西武戦(福島)に4-1で勝ち、通算2度目の月間勝ち越し。

サンヨーオールスターゲームはファン投票で選出された選手はおらず、監督推薦でホセ・フェルナンデスと福盛和男の2人が選出された。

8月20日の対オリックス・バファローズ戦でリーグ戦初の同一カード3連勝を果たす。

8月26日・27日、ファームの試合が青森県営野球場で開催、東北地方6県すべてで公式戦の開催を実現。

9月25日に行われたドラフト会議(高校生の部)で夏の甲子園大会準優勝・駒大苫小牧の田中将大投手を1巡目指名。

10月1日、全日程終了。2年連続最下位に終わったものの、前年より9勝多い47勝(85敗4分)を挙げ、5位(オリックス・バファローズ)とは4.5ゲーム差。

リック・ショート、鉄平、ホセ・フェルナンデス、高須洋介と12球団最多となる3割打者4人を輩出した。

11月3~8日、日米野球。日本代表監督として野村監督が指揮を執る(全5戦共)。楽天からは高須洋介、鉄平、福盛和男、小倉恒が登場。

11月14日、ホセ・フェルナンデス選手がベストナイン受賞。球団初のタイトル獲得選手となる。

12月28日、同球団のジュニアチームがNPB12球団ジュニアトーナメント(26日開催)にて読売ジュニアを下し優勝した。


2007年シーズン
気候上の問題から、オープン戦はフルスタ宮城では3年連続で主催試合を行わず、高松1試合と静岡2試合の3試合のみを主催。

4月1日、オリックス戦(フルスタ宮城)で、3回裏にホセ・フェルナンデス、山崎武司がともに吉井理人投手から満塁本塁打を記録。1イニング2本の満塁本塁打はプロ球界で3例目。同一投手からはプロ野球史上初。

4月17日~4月19日、対ソフトバンク3連戦(フルスタ宮城)で、初の本拠地3連勝を記録。

4月20日、4月21日のフルスタでの千葉ロッテマリーンズ戦で、ファン人気投票で決まったという3rdユニフォーム(正式には交流戦用のラグランスリーブのユニフォームがあるため4thユニフォーム)を着て試合を行う。

4月、山崎武司が月間MVP受賞。イーグルス初の受賞者。

5月9日~5月15日、球団新記録となる5連勝を記録。

6月17日、中島俊哉の1軍に昇格により、楽天の創立メンバーは全員1度は1軍を経験。

7月2日、オールスターで8選手がファン投票で選出される。

8月31日、田中将大が球団初の10勝到達。

8月、ホセ・フェルナンデスが月間MVPを受賞。チームの月間勝利数記録を15に更新する。

9月15日、山崎武司が球団初の100打点到達。

 

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2007-09-15-Sat 23:42:31 │EDIT

北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は札幌ドーム(北海道札幌市)。準本拠地は函館オーシャンスタジアム・旭川スタルヒン球場・帯広の森野球場・釧路市民球場などの北海道内の野球場と2003年までの本拠地・東京ドーム。ファームの本拠地はファイターズスタジアム(千葉県鎌ケ谷市)。

セネタース・東急時代
1946年、戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタース(法人名:セネタース野球協会)を設立。

大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、個人で立ち上げた球団だったため財政的に非常に厳しく、ユニフォームなど戦前の阪急のお下がりという状態だった。

旧華族の西園寺公一(西園寺公望の孫)をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り横沢は球団経営を諦めざるを得なくなった。

なお、東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と呼称している。これは東京ジャイアンツが「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため(ただし、阪神においては、公式な愛称としては定着しなかったが、現在の打線のネーミングは「猛虎打線」である)、定着しなかった。

翌1947年1月7日、東京急行電鉄にチームを売却。東急ベースボール倶楽部が発足し、チーム名を東急フライヤーズ(とうきゅう-)とした。当時の東急はまだ大東急の時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。専務の大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が球界屈指の人気選手となり多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。

1948年、プロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し、大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映球団が経営に参加し球団名を東急大映野球、チーム名を急映フライヤーズ(きゅうえい-)に改称。しかし大映は金星スターズを別途買収する事が決まり(詳しくは大映ユニオンズの項目を参照)、フライヤーズの運営から手を引き球団名およびチーム名は1年で元に戻った。

1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。

1953年9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒沢球場が完成し、文京区の後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。


東映・日拓ホーム時代
1954年2月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。東映は子会社の東映興業に球団を移管。チーム名を東映フライヤーズ(とうえい-)に、法人名を東映フライヤーズ野球団にそれぞれ変更。1972年まで19年間続いた(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。

1961年、水原茂が巨人の監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋を呼ぶ。水原とは飲み友達であった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで大川にも可愛がられていた。この招聘工作から俊藤は東映に深く食い込んでいく。

1962年、東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることを受け、新宿区の明治神宮野球場に本拠地を移転(当時は学生野球優先がまだ残っていたことから、週末など日中に学生野球がある時は後楽園など他の球場を借りた)。同年、水原監督の下で土橋正幸、尾崎行雄の両エースが大車輪の活躍をし、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを破り念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。

1964年、国鉄スワローズの神宮進出に伴い後楽園球場に舞い戻る。

張本勲、大杉勝男、白仁天、毒島章一、大下剛史ら強打者が揃っていたが、映画産業の斜陽や、「黒い霧事件」(1970年、エースの森安敏明が永久追放を受けた)による人気低迷なども響いた上、1971年名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する五島昇東急社長(強盗慶太の異名を取った五島慶太の長男。大川とは不仲とされた)と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放した。

1973年2月7日に岡田・五島共通の知人で、首都圏で不動産産業展開する西村昭孝経営の日拓ホームに身売り。チーム名は日拓ホームフライヤーズ(にったく-)に改称。西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発(後述)するなどして、球団運営にあらゆる新機軸を試みたが、結局不発に終わる。パ・リーグに将来は無いと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差し球団経営を放棄。同年終了後わずか1シーズンで日本ハムに身売りした。なお、球団売却後の1976年に日拓ホームはパチンコに進出した。


日本ハム(東京本拠地)時代
後楽園時代
1973年11月19日に日本ハムに売却。チーム名は日本ハムファイターズ(にっぽん-)、法人名は日本ハム球団株式会社になり、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任し、「フライヤーズ」のニックネームは27年で消滅した。

この当時のフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場。それ故に日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(その当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくは無かった)という原則があった。但し、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。そういった事で、日本ハムはプロ野球界におけるファンクラブの先駆け的な存在として他の10球団(当時は巨人・中日にはファンクラブが存在しなかった)の模範となっている。同時に日本プロ野球界初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場。

ちなみに「ファイターズ」の名は公募による。名付け親となったのは岡山県の女子高生であり、「(当時在籍していた)大杉勝男選手(故人)がガッツがある、ファイターだから」というのが命名理由である(大杉は岡山県出身)。しかし、東映時代の主力は多数がトレードされ、大杉もヤクルトに放出されてしまった。また、公募で名前を決定する際、フライヤーズ時代に敬意を表して「F」で始まる言葉にしたとも言われている。

80年代はパリーグで突出した活躍をしたエースが多く、津野浩(80年代中期に2桁勝利を含むチーム勝ち頭を数年記録し、開幕投手を務める)、柴田保光(技巧派でオールスター3度出場し1990年にはノーヒットノーラン記録)といった投手が活躍。

1974年 張本勲が7度目の首位打者獲得。

1975年 前・後期共に4位ながら、総合最下位に終わる。高橋直樹が17勝。

1976年 中西監督が辞任し、大沢啓二が監督就任。張本とのトレードで高橋一三を獲得。高橋直樹と共に「一直線コンビ」結成。

1977年 島田誠を獲得。入団テストでバック転を披露。

1978年 トレードで柏原純一・間柴茂有を獲得。オールスターでは8人がファン投票1位で、2人辞退。

1979年 高橋直樹が20勝。島田が1回3盗塁をはじめ、55盗塁を記録。

1980年 ルーキー・木田勇が22勝(8敗)で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。

オフには広島とのトレードで高橋直樹を放出し、優勝請負人・江夏豊を獲得。

1981年 後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを破り、東映時代から数えて通算2度目のリーグ優勝。巨人との日本シリーズ、通称「後楽園決戦」では、トミー・クルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。

打撃陣ではクルーズの他、柏原純一、トニー・ソレイタらの活躍が光った。また同年の優勝メンバーは島田、「孫悟空」の愛称で親しまれた菅野光夫、高代延博といった小兵選手が多かったのも特徴であった。

間柴が15勝無敗。ソレイタが本塁打・打点の2冠王。岡部が防御率1位。江夏がセーブ王。柏原がプレーオフMVP。

1982年 後期優勝も、プレーオフで前期優勝の西武に敗れ、2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望と見られていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。

工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。

1983年 1シーズン制元年。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。

1984年 植村義信が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため途中解任。終盤は大沢が代行した。

1985年 高田繁が監督就任。

古屋英夫が3割33本塁打。オフに木田と柏原を放出。

1986年 ドラフト1巡指名で広瀬哲朗、3巡指名で後の「ミスター・ファイターズ」・田中幸雄を獲得。

1987年 後楽園最終年。ドラフト一巡指名で「トレンディー・エース」・西崎幸広を獲得。新人にして15勝(7敗)・防御率2点台と大車輪の活躍。新人王は阿波野秀幸(近鉄)に奪われるものの、以後も2桁勝利を重ね、若くしてその実績と華麗なフォームから投げる速球、甘いマスクで女性を中心に圧倒的な支持を受けた。


東京ドーム時代
1988~2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案と言われる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」といったイベントなどを打ち出す。

1988年 東京ドーム元年。大島康徳を獲得。西崎、「逆転のマツ」こと松浦宏明が最多勝。河野博文が防御率1位。ドラフトで芝草宇宙を獲得。

1989年 高田監督が辞任し、近藤貞雄が就任。西崎が16勝。中島輝士が開幕戦で新人サヨナラ本塁打。

1990年 柴田保光がノーヒットノーラン達成。オフに島田・古屋を放出。ドラフトで岩本勉を獲得。

1991年 白井一幸が最高出塁率。武田一浩が最優秀救援投手。

1992年 東映時代のエース・土橋正幸が監督就任。トレードで獲得した金石昭人が14勝。ルーキー・片岡篤史が打率.290を記録。

1993年 大沢が監督復帰。1点を守りきる野球を確立し2位に大躍進。広瀬が初のレギュラーでベストナインに選出される。ドラフトで西浦克拓を獲得。

1994年 怪我人に泣き、まさかの最下位低迷。最終戦には東京ドームのマウンド上で大沢監督自ら土下座でファンに謝罪した。

田中幸雄が27本塁打。オフに松浦を放出。

1995年 大沢が勇退し、常勝阪急を築き上げた名将・上田利治が監督就任。

西崎がノーヒットノーラン達成。キップ・グロスが最多勝。田中幸雄が打点王を獲得。白井・田村藤夫を放出。ドラフトで金村暁を獲得。

1996年 優勝に迫るが、上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養、チームを離脱し優勝を逃す。

グロスが最多勝、金子誠が新人王、島崎毅が最多ホールドを獲得。

1997年 落合博満を獲得も、奮わず4位。ドラフトで小笠原道大、高橋信二を獲得。

ナイジェル・ウィルソンが本塁打王。オフに西崎を放出。

1998年 東京ドームの特性を生かし、ウィルソン、ジェローム・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦、小笠原を擁するビッグバン打線の活躍により前半戦は首位、チーム打撃成績も歴代のシーズン記録を更新だったが、後半はそれまでの打線が沈黙、投手陣の崩壊もあり優勝を逃してしまう。落合が引退。

ウィルソンが本塁打・打点王。金村が防御率1位。片岡が最高出塁率。ドラフトで清水章夫、古城茂幸、小田智之を獲得。西武とのトレードで奈良原浩を獲得。

1999年 小笠原が1塁コンバート、「史上最強の2番打者」として活躍。岩本が13勝。ドラフトで建山義紀、立石尚行、伊藤剛、実松一成、森本稀哲を獲得。

2000年 上田が辞任し、大島康徳が監督就任。小笠原が最多安打・31本塁打。シャーマン・オバンドーが30、ウイルソンが37本塁打。ドラフトで正田樹、吉崎勝、田中賢介を獲得。

2001年 小笠原が最多安打も首位打者は成らず。投手陣の大崩壊で最下位。オフに片岡が阪神にFA移籍。ドラフトで木元邦之、江尻慎太郎を獲得。

2002年 観客増を図るため、それまでプロ野球球団が本拠地をおいていなかった札幌市に本拠地移す構想が、3月20日の北海道新聞朝刊1面のトップ記事になる。

同市の準本拠化を計画していた西武ライオンズ、東京のファイターズファンからの反発もあったが、他球団の公式戦試合も開催するという条件を付けて、移転を受諾させた。

この移転を機に、北海道出身者や北海道地域タレントを中心に、ファイターズのファンになるとの発言が見られた。

小笠原が首位打者。カルロス・ミラバルが先発転向で9勝。正田が新人王。阪神とのトレードで坪井智哉を、ドラフトで武田久、鶴岡慎也、小谷野栄一、紺田敏正を獲得。新外国人としてエンジェル・エチェバリアと契約。

2003年 大島が解任され、トレイ・ヒルマンが監督就任。東京ドーム最終年。小笠原が首位打者・最高出塁率。オフにはアメリカ・メジャーリーグから帰って来た新庄剛志(登録名「SHINJO」)、マイナーで2冠王に輝いたフェルナンド・セギノール、横浜を自由契約となった横山道哉、中嶋聡、巨人から入来祐作を獲得。ドラフトでは押本健彦、須永英輝、糸井嘉男、稲田直人、金森敬之を獲得。


北海道日本ハム時代
2004年 本拠地を北海道札幌市の札幌ドームに移転。チーム名も北海道日本ハムファイターズとし、地域に密着したチーム作りを目指す。

本拠地移転及び、北海道の有力企業からの出資を受ける際、既存の球団会社(日本ハム球団株式会社)は新会社(株式会社北海道日本ハムファイターズ、2003年8月設立)へ球団運営権を譲渡し、旧会社は特別清算手続きをとっている。

シーズン途中にオバンドーが復帰。巨人とのトレードで隼人を放出し、河本育之を獲得。

千葉ロッテマリーンズとプレーオフ(上位3チーム進出のトーナメント)出場をシーズン終盤まで争い、9月24日のオリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決めた(4位ロッテとは0.5ゲーム差)。

プレーオフ史上最多の20得点を記録をするなど活躍するが、北海道移転元年のリーグ優勝は叶わなかった。

セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横山が28セーブで最多セーブ。

オフにはブラッド・トーマス、エリック・アルモンテ、ブランドン・ナイトらと契約し、ヤクルトからFA宣言した稲葉篤紀を獲得。ドラフトでは橋本義隆、菊池和正、工藤隆人の他、済美高校の主砲・鵜久森淳志、高卒No.1ピッチャー・ダルビッシュ有、メジャーからの「逆輸入」という珍しい形でマイケル中村(登録名「MICHEAL」)が入団。シーズン途中にミラバルが故障のため退団し、ミラバルの穴を埋めるためにコリー・リーを獲得。

2005年 元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャーに就任。

4月27日、大社義規元オーナーが死去。同オーナーの背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番に。田中幸雄が通算1000打点、金子誠が通算1000本安打を達成。

9月20日の西武戦(札幌ドーム)に敗れ、2年連続のプレーオフ進出の可能性が消滅(最終順位は5位)。

オフには現役ベテランメジャーリーガーのホセ・マシーアスを獲得するも、ローテーションの一角だった入来が渡米し、石井一久の獲得にも名乗りを挙げたが失敗。また、攻守に渡って振るわなかったナイト、アルモンテを解雇。大学・社会人ドラフトでは八木智哉、武田勝、川島慶三ら即戦力ルーキーを獲得し、高校ドラフトでは10年に1人の逸材と謳われる陽仲壽をソフトバンクとの競り合いの末に獲得。また、2006年シーズン開幕直前に巨人とのトレードで古城、実松を放出し、岡島秀樹を獲得。岩本、石本、西浦らが現役引退。

2006年 4月18日、開幕早々、SHINJOが2006年限りでの引退を発表。中日との金銭トレードで奈良原を放出。糸井が外野手に転向。

交流戦最終戦の6月20日の東京ヤクルト戦から、7月7日の西武戦まで、45年ぶりとなる11連勝(当時の球団最多タイ)を記録。以降も大型連勝が続いた。

西武・福岡ソフトバンクと三つ巴の首位争いの後、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定させた(交流戦の結果を除いた成績でも1位)。防御率3.05、チーム本塁打数135の投打2冠を達成。

10月12日、プレーオフ第2ステージ(対・ソフトバンク)を2連勝で制し、25年ぶりにリーグ優勝。

10月26日、中日ドラゴンズとの日本シリーズに4勝1敗の戦績で44年ぶりの日本一を手にした(ファイターズとして、GM制施行チームとして、札幌移転後として初)。

11月、かつて本拠地とした東京ドームで行われたアジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となる。

小笠原が本塁打・打点の2冠王(打点は西武・カブレラと同数)。稲葉が自己最多の26本塁打。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのパ・リーグ新記録で最多セーブ。田中賢介が犠打王。森本が得点王。ダルビッシュ、八木が12勝。

12月12日、毎日スポーツ人賞のグランプリを受賞。

12月20日、日本プロスポーツ協会から日本プロスポーツ殊勲賞を受賞。

オフには小笠原が巨人、岡島がアメリカメジャーリーグのボストン・レッドソックスにそれぞれFA移籍、SHINJOが引退したほか、トーマス、リー、マシーアス、ディアスらの外国人が揃って退団。ドラフトでは広陵高校のエース吉川光夫、大学日本代表4番を打ったスラッガー・金子洋平らが入団(ドラフト4位の長野久義は指名したが、本人が拒否)。新外国人としてアンディ・グリーン、ブライアン・スウィーニーと契約、他にも東北楽天を自由契約になったライアン・グリンを、シーズン開幕直前、阪神とのトレードで正田を放出し、金澤健人を獲得。

2007年 3月24日の開幕戦(千葉マリンのロッテ戦)が降雨コールドで引き分けに終わる(パ・リーグでは1966年の東映(前身球団)対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事)。翌日も延長12回で引き分け。開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事。

5月17日、田中幸雄が球団の生え抜きとしては初の通算2000本安打を達成。同時に背番号の6を永久欠番とすることが検討される。

6月5日、球団新記録である14連勝を達成。さらに、交流戦の連勝記録である12連勝を達成。また14連勝中、木下、金森、吉川がプロ初勝利。

6月15日、大リーグドジャース傘下、3Aラスベガス所属のスラッガーミッチ・ジョーンズを新外国人として獲得。

6月23日、阪神戦を制し、阪神甲子園球場で日本生命プロ野球セ・パ交流戦初優勝を決めた。交流戦MVPはライアン・グリンが獲得。交流戦は18勝5敗と大きく勝ち越した。交流戦パ2位(全体4位)のロッテは13勝10敗、交流戦前首位だったソフトバンクは交流戦パ6位(全体9位)11勝13敗と、交流戦で他球団に大きく差をつけることになった。

6月25日、オリックスとのトレードで木元、清水を放出し、萩原淳と歌藤達夫を獲得。

8月9日、ダルビッシュが試合後のヒーローインタビューで婚約を発表。

8月14日、金子誠が通算200犠打を達成。

 

2007-09-14-Fri 23:56:12 │EDIT

西武ライオンズ(せいぶライオンズ、Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。一軍の本拠地はグッドウィルドーム。二軍のチーム名称はグッドウィル。二軍の本拠地は、隣接する西武第二球場を使用する。社会奉仕団体である『ライオンズクラブ』や大京の建設するマンション『ライオンズマンション』との関連は無い。
なお、一軍の本拠地名称と二軍のチーム名称については、2005年からそれぞれ命名権(ネーミングライツ)を採用している。

福岡時代
1949年の2リーグ分裂と共に福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、法人名:西鉄野球株式会社)として創立。パ・リーグに加盟。親会社は西日本鉄道(同社は戦前も西鉄軍を経営していたが、西鉄軍は1943年に解散したため、現在のライオンズとは直接の関係はない)。戦後すぐの球団再建が認められず、2リーグ分裂まで待たねばならなかった。

1951年2月26日、同じく福岡市を本拠地としていた西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズとなる。

1956年~1958年に日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年は稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。この当時の主力には中西太、豊田泰光、仰木彬、高倉照幸らがおり、「野武士軍団」と呼ばれていた。

西鉄最後の優勝となった1963年は南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終戦で奇跡の大逆転優勝を飾る。

1969年に「黒い霧事件」が発覚し池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により大幅な戦力ダウン、それに伴う観客動員数の減少により経営が悪化。本業(交通事業)の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。

1973年にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、新会社「福岡野球株式会社」を設立。ペプシコーラ日本法人(現サントリー)に買収させる案があったが、同年東映フライヤーズが日拓ホームに身売りされ、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。このためペプシへの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発の太平洋クラブと提携し太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-)に、1977年に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携しクラウンライターライオンズ(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と改名を繰り返す。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。

1978年シーズン終了後所沢への移転を発表。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、現球団名となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。


西武黄金時代
1979年に西武ライオンズがスタート。最下位・4位・4位の後、広岡達朗監督の下、東尾修、田淵幸一らを中心とした1982年・1983年に2年連続日本一、秋山幸二、石毛宏典らを中心とした1985年~1988年はV4と栄光の足跡を残した(1986年~1988年は日本シリーズ・3年連続日本一)。

森祗晶監督時代は投打ともに圧倒的な戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦など)が揃い、特に渡辺久信(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲(巨人の王・長嶋のON砲以来の破壊力を誇った)と呼ばれた秋山・清原の打力は他球団から恐れられた。1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は近鉄に2厘差、さらにオリックスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年はヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成し黄金時代を築きあげ、「常勝西武」と呼ばれた。

1993年秋には9年連続30本以上の本塁打の偉業を達成し、攻守走の要として君臨していた秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男、内山智之⇔佐々木誠、橋本武広、村田勝喜の3対3の交換)。森監督は1994年限りで勇退。

1995年、東尾監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、黄金期に終止符を打った。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。

1997年には松井稼頭央や髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。翌1998年も日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、いずれも日本一はならなかった。

1999年には西武ドームが完成、松坂大輔人気などもあり観客動員数増加、ナイター中継増加と世間の注目を集めるも、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸と常勝軍団化以降はワーストとなってしまった。

2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。伊原監督就任1年目の2002年は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝。しかし日本シリーズは巨人に4連敗と大敗を喫した。2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。


伊東監督時代
2004年、伊東監督が就任。これに伴いホーム用ユニフォームが25年ぶりに(微細な変更を除く)一新された。ビジター用の変更は2回あるがホーム用の一新は初めて(ただし球団旗などのロゴは変更なし)。この年導入されたパ・リーグプレーオフで、北海道日本ハムファイターズと福岡ダイエーホークスを接戦の末破り2年ぶり15回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日ドラゴンズに先に王手をかけられるものの敵地ナゴヤドームで連勝し、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。

2004年シーズンオフ、コクドの事業不振に加え、西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も「西武ライオンズ」として引き続き経営されている。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有する方針を固めていた。なお西武グループの再編により、直接の親会社はコクドからプリンスホテルに変わった。

2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(2006年も同日に開催した)。

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