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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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阪神タイガース

2007-09-18-Tue 23:28:48 │EDIT

阪神タイガース(はんしんタイガース、HANSHIN Tigers)とは、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。2005・2006年度ペナントレース実数での観客動員数は12球団の中で唯一300万人を超え最多。阪急阪神東宝グループの系列。なお「Tigers」の英語での発音は「タイガーズ」の方が正しい。

戦前期
1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになったのである。

1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさか-)が発足した。日本運動協会(のち宝塚運動協会)、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。

翌1936年にも、川崎コロムビアの若林忠志(1月9日)や立教大学の景浦將(2月28日)等の有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等とともに日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。


ホームスタジアム・阪神甲子園球場で開かれる公式戦でのファンによる応援の様子1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかったが、開催された3大会でタイガースはいずれも1位を逃した。松木や景浦率いる打線にエース若林といった豪華な布陣を考えれば、これは芳しくない成績であった。

1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が新監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分と抜群の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。

戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に東京巨人に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝いた。

1940年9月、戦局悪化による敵性英語の使用禁止をうけ球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。


戦後期(1946年~1959年)
戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、翌年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入した際、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は

1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、ミスタータイガースと呼ばれた。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。

1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した(ちなみに別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている)。さらに遊撃手・長谷川善三までもが西鉄クリッパースへ移籍。門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍するなど、ダイナマイト打線は崩壊した。

セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。

一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。


2度のリーグ制覇(1960年代)
フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更して、心機一転をはかった。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰監督がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義ヘッドコーチが監督に就任した。

1962年、藤本監督の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目の優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる(シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更)。

1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。


迷走から日本一へ(1970年~1985年)
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手達とミスタータイガース村山監督をそろえたチームは、1964年以来の優勝を期待させた。しかし、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えていた。そのため、1970年2位、1971年5位、1972年2位と期待に応えられなかった。1972年には村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。

1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。試合終了後敗戦に怒ったファンが球場に乱入し、巨人の主力選手に殴る蹴るの暴行を加えるなど混乱した。

1975年、吉田が監督に就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。

1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。

主力級選手の放出獲得を次々と行ったことで批判を浴びた上、1979年以降も最下位は免れたもののチーム成績は低迷が続いた。この間、監督はドン・ブレイザー、1980年途中からの中西太と監督がめまぐるしく交代するがチームは3~5位という状況であった。

1982年、安藤統男が監督に就任。成績は奮わなかったが、戦力が厚みを増し1985年の日本一につながった。

1985年、吉田が監督に復帰。この年は21年ぶりのリーグ優勝を果たすが、それを目前にした8月12日、中埜肇球団社長が日航機墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。結果的にはこの大事件により、阪神ナインは一層奮起したとも言われる。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録(2004年に読売ジャイアンツに破られるまではセ・リーグ記録だった)し、中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をした。1985年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を下し日本一を達成した。同年の最優秀選手(MVP)となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠王という偉業を成し遂げた。1986年にはシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークし、いずれの記録も現在でも破られていない。

また、阪神は1985年の日本シリーズで西武ライオンズ球場では3戦(第1戦、第2戦、第6戦)全勝しており、2005年の交流戦においても(ただし球場名はインボイス西武ドームとなっている)2連勝して20年越しでの所沢5連勝を飾った。


低迷期(1986年~2001年)
日本一になった1985年からわずか1年後の1986年は、掛布の骨折と主軸投手池田の負傷による長期戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位に。

1987年は開幕から不振で最下位となる。さらにコーチ陣との軋轢も加わり、吉田監督は辞任。

1988年、村山監督が復帰。「少年隊」トリオの和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進める。しかし、バースの帰国、掛布の引退などが重なり2年連続最下位。

1989年は新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。シーズン中から監督問題が浮上し、村山監督が辞任。チームは5位となり3年連続最下位は免れた。

1990年、中村勝広監督が就任。ヤクルトを解雇されたラリー・パリッシュを獲得した。5月中盤までは岡田・パリッシュが好調だったが、6月20日に最下位に転落して以降、浮上することはなく最下位に終わる。投手陣もエースのマット・キーオが怪我で退団、先発ローテーションを守った者は5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状だった。

1991年、開幕55試合で15勝40敗という成績不振だった。後半戦は、猪俣隆、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めたが、2年連続最下位。

1992年、不振に陥っていた主砲の岡田に代わり、それまでほとんど実績がなかった亀山努、新庄剛志の両俊足外野手が大活躍(亀新フィーバー)。甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も大活躍し、和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らと共に、ヤクルトスワローズと久々に優勝争いを繰り広げ、2位となる。

1993年には主力選手の故障に加え、外国人枠を巡る「PKO問題」でパチョレックが退団、エース級の野田と交換で獲得した松永も1年で退団するなどで4位に終わった。FAでオリックスから石嶺を獲得。

1994年は新人の藪恵市が活躍しシーズン後半まで首位争いに加わったが、死のロードで脱落し2年連続の4位に終わる。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇し、FAでオリックスから山沖を獲得した。

1995年は開幕から極度な不振が続き、中村監督がシーズン途中で辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも4年ぶりの最下位に終わる。

1996年、藤田監督が就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、新庄や主力選手との確執によりシーズン途中で辞任。2年連続最下位に終わった。

1997年に吉田監督が再復帰。1985年時の強力打線を目指したが、グリーンウェルの途中退団、新庄ら主力選手の不振により5位に終わった。オフに久慈照嘉・関川浩一を中日へ放出し、大豊泰昭・矢野輝弘を中日から獲得。

1998年は、新人の坪井智哉が奮闘したものの、選手の不振により2年振りの最下位。シーズン後吉田監督が辞任。

1999年、「ID野球」の教祖・野村克也監督を招聘して猛虎再生を託した。野村は新庄の投手起用や、伊藤敦規、葛西稔、遠山奬志らの奇抜な投手交代、赤星憲広をはじめとする俊足選手の獲得、エース井川慶(現・ニューヨーク・ヤンキース)、若き主砲濱中治の育成、不逞選手の解雇など手を尽くし低迷脱出を図った。しかし、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、深刻な戦力不足から3年連続最下位に沈むと、沙知代夫人の脱税の責任を取って2001年シーズン限りで退団した。


猛虎復活(2002年~)
2001年オフ、野村の後任監督に中日監督を辞任したばかりの星野仙一が就任。日本ハムからFAで片岡篤史を獲得。

2002年は開幕7連勝と好スタートを切って優勝争いに絡んだが、同年に開催されたサッカーワールドカップの日本開催による変則スケジュール後にバテてしまい、また夏場以降巨人に圧倒され4位に終わった。それでも最下位脱出には成功し、オフにはチームの活性化を目的とした選手の入れ替えを実施して実績のない選手を解雇や二軍へ回す等の血の入れ替えを行い、伊良部秀輝や金本知憲、下柳剛の獲得など積極的な補強を進めた。

2003年は桧山進次郎、今岡誠、赤星憲広、金本知憲、片岡篤史、矢野輝弘、藤本敦士、井川慶ら充実した戦力で開幕より快進撃を続け、稀にみる独走で18年ぶりのリーグ優勝を果たした。その後の日本シリーズでは福岡ダイエーホークスと戦い、金本、桧山、吉野誠らの活躍で10年ぶりに第7戦までもつれ込むなどシリーズを盛り上げたが、惜しくも3勝4敗で敗れた。日本シリーズ終了後に星野は体調不良を理由に勇退し、星野によって招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長として、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一と達川光男、西本聖は退団した。

後任監督に岡田コーチが就任。1年目の2004年は主力選手の不振、更に藤本、安藤、ウィリアムスのアテネ五輪出場による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だった。

2005年は「JFK」(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の頭文字)や「SHE」(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴の頭文字)などの救援陣の活躍や、アンディ・シーツ、金本、今岡によるクリーンナップの安定した成績で、同年導入された交流戦で好成績を収めて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく9度目のリーグ優勝を飾った。しかし日本シリーズでロッテに4連敗を喫してしまった(ちなみに千葉マリンスタジアムで行われた第1試合は7回裏途中(1アウト無走者)で濃霧コールドゲームという珍事が起きた)。この年のオフに、島野の二軍監督就任と木戸克彦二軍監督の退団を発表。

2006年はシーズンの最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝を飾るも、今岡の不振と負傷、久保田の負傷等、主力選手の不振が響いて2位となった。だが1985年(首位)~1986年(3位)以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団史上初の2年連続80勝を達成。2005年から実施された実数での観客動員数も2年連続300万人を超え、1試合平均観客動員数も4万3千人台と何れも12球団一の動員数だった。また交流戦ではロッテに5勝1敗で勝ち越し、昨年の日本シリーズでの雪辱を晴らした。

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