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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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広島東洋カープ

2007-09-17-Mon 23:36:45 │EDIT

広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。親会社を持たない市民球団として結成されたという独自の歴史を持つ。
本拠地は広島市民球場(広島県広島市)。二軍の本拠地は広島東洋カープ由宇練習場(山口県岩国市)。

壊滅の広島からプロ野球を 第一次暗黒時代
1949年シーズンオフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。球団名を広島カープとした。

本拠地球場は広島総合球場。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、監督の石本秀一自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが寄せ集めのチームは著しく低迷。

1951年に深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な当時のお金で400万円を集めた。球団も四方八方手を尽くし解散を回避。この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。

翌1952年シーズン開幕前には、当時7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補だったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ勝率.316で解散を免れた(松竹ロビンスが最下位・勝率.288)。この年限りで石本は退任。代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団した。小鶴誠、金山次郎の入団だけで大パレードを敢行、続いて獲得に成功した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)、光吉勉入団の際には更に盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で、市中紙吹雪が舞った。「人出は天皇ご巡幸の時よりも多かった」ともいわれた。(真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社)

1952年から1953年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけしかなかった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。

1953年のオールスターゲームのファン投票で、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手がトップ当選。当時の野球ファンを驚かせ、集団投票事件などと批判を浴びた。オールスターの「組織票」の最初のケースがこの年の広島カープと推測される。(真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社)

1953年~1960年まで白石が監督を務める。チーム成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割とシーズン勝ち越しを果たした。その後、1961年から1962年まで準生え抜きの門前眞佐人が監督を務めたが、勝率5割を割り辞任。この間1957年7月より、広島市民球場に本拠地を移転した。白石は1963年~1965年シーズン途中まで2度目の監督を務めた。

1965年7月から長谷川監督が務めた後、1968年、東洋工業(現・マツダ)が筆頭スポンサーとなり球団名を現在の広島東洋カープに改称。同年、根本陸夫監督のもと3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。しかし根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。


チームカラーを赤に 赤ヘル黄金時代
1973年、別当薫が監督就任すると、チームのイメージを一新すべくユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字、胸番号、背番号に赤の縁取り、袖、腰、ストッキングに赤色のラインが入り、チームカラーとなる「赤」が取り入れられた。

1975年、球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子、ヘルメットの色が赤になった。ルーツはシーズン途中で退団したが、後任監督の古葉竹識のもと球団初優勝。平和大通りで行われた優勝パレードはファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた。これは現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。以降、カープは球団史上に残る黄金時代に突入する。

1977年、胸文字、胸番号、背番号、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり"カープ=赤”が定着する。

1978年、日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルとヘンリー・ギャレットの両外人、水谷実雄や高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。

1979年・1980年には日本シリーズ2連覇を成し遂げた。

1984年は山本浩二、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。

1986年から阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝。

1989年に山本監督誕生。1991年、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。1993年に最下位の責任を取り辞任。

1994年、三村敏之が監督に就任。1996年シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、3位に。三村は1998年限りで退任。この年、投打の主力選手だった大野豊、正田耕三の引退も重なった。


第二次暗黒時代の到来 ブラウン政権へ
1999年からは達川晃豊が監督に就任。しかし1999年、2000年共5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。

2001年シーズンより再び山本浩二が監督として指揮を執るも、これといった補強の成果も見られず1度もAクラスを経験しないまま2005年終了後成績の低迷の責任を取り辞任。最終年となった2005年もチーム12年ぶりの最下位となった。なお、2001年は4位だったが、これはこの年に限り順位が勝利数順だったためであり、勝率では3位だった。

2005年9月10日の阪神戦(甲子園)では5失策21失点、特に7回裏には犯した失策が全て失点に絡み失策と四球で出した走者だけで8点を奪われた。

9月頃よりライブドア社長の堀江貴文(当時)によるカープ球団買収報道が流れ始め、同10月中旬にライブドアが本格的に球団買収調査を開始したと報道された。

打線は機動力や小技を発揮出来る選手の育成が進まず、本塁打に頼る野球になり、阪神甲子園球場やナゴヤドーム等の広い球場では点が取れず、広島の“鬼門”とも呼ばれている。逆に本塁打の出やすい神宮球場ではヤクルトとの好相性もあってか勝つことが多い。

2006年ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティー・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を計った。

キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。

年開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続とした。

2007年キャプテンは前田と黒田となった。

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