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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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中日ドラゴンズ

2007-09-19-Wed 23:23:12 │EDIT

中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。

1リーグ時代
1936年、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。明大の中根之、白系アメリカ人で捕手のハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。日本各地に同様の球団を結成、大日本野球連盟を組織し、独自のリーグを作ろうとしたが失敗。日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)のリーグに加わった。当初の会社名は「株式会社大日本野球連盟名古屋協会・名古屋軍」「株式会社大日本野球連盟東京協会・大東京軍」であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。

1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがあとを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。

慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人・阪神に及ばず、優勝は遠かった。

1942年、戦時下の新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞社として新設。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資し1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を理研工業の傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団に例外なく多くが兵役に駆られ、「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。

1946年リーグ戦再開に伴い中部日本新聞社が経営に復帰。チーム名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。愛称は「中部」(参照)。

1947年のニックネーム導入にあたり、当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から中部日本ドラゴンズに改称。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、またしてもチーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。

1948年に中日ドラゴンズに改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。

1949年、天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。

セ・リーグ加盟後
1951年2月6日より名古屋鉄道が経営参加し名古屋ドラゴンズと改名。8月19日に中日球場が試合中の火災により全焼。(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行う)オフに鉄筋コンクリートで再建。

1953年シーズンをもって名鉄が経営から撤退すると中日ドラゴンズに名前を戻した。

1954年天知監督の下、西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。日本シリーズでも西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、初の日本一。

1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。

1961年、濃人渉監督が就任。ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍により読売に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。

1962年、プロ野球で初めて、元メジャーリーガーのドン・ニューカム、ラリー・ドビーを入団させるが、3位。

1965年~1967年、西沢監督のもとで3年連続2位と健闘するが、惜しくも優勝には届かなかった。

1968年の杉下監督を挟み、1969年から元読売の水原茂監督が就任するが4位、5位、2位と今ひとつ伸びなかった。

1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。監督3年目の1974年、高木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍。読売のV10を阻止しリーグ優勝を果たした。与那嶺監督は1977年まで務めた。

1978年、中利夫監督が就任。初年度は5位、79年は3位とAクラス入りを果たすも、80年は6位と振るわず同年限りで辞任。この年を最後に高木が引退。

 

近藤・山内監督時代
1981年、近藤貞雄監督が就任。1982年には3度目のリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二らの若手を登用。他の野手では大島康徳、田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた

1982年 プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックが点灯。10月18日、横浜スタジアムの大洋最終戦、中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば読売優勝という天王山では小松辰雄の完封勝利によって見事優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退。

1983年、戦力不足からチームは5位に終わり近藤が退任。

1984年、山内一弘監督が就任。初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。 シーズンオフ、星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が当初拒否し、星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。


星野・高木監督時代
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、前年の不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。

1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差をつけられ最下位。7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。ところが翌7月9日以降は50勝15敗3分、勝率.769と驚異的なペースで勝ち進み、10月7日に逆転優勝を果たす。生え抜き監督での優勝は球団史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝いた。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。なお、本来は優勝パレードが予定されていたが昭和天皇の体調悪化により自粛に至った。星野仙一監督は1991年を最後に勇退。

1992年、高木守道監督が就任。12年ぶりの最下位に沈むも、成績は60勝70敗で、優勝したヤクルト(69勝61敗)と9ゲーム差しか離れておらず、この年のセ・リーグは6球団がすべて60勝台という大混戦だった。

1993年は、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。両者とも17勝で最多勝に輝き、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。

1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついたものの、8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。しかし9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に加えて当時の3本柱・槙原、斎藤、桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率と、投打のタイトルを総なめした。

1995年、前年度の優勝を最後まで争っての2位という成績を評価され高木監督が続投。しかし不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。

1996年、星野監督が復帰。ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかり不振に終わる。この年は例の長嶋巨人「メークドラマ」の年であったが、読売があと1勝で優勝という時点で(読売の残り試合はすべて中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。そして10月6日、この試合を含む残り3試合の読売戦に全勝すればプレーオフというところまでこぎつけるが、3試合目で敗れ去り優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜(恐竜)打線”の愛称も一層の定着を見せた。


ナゴヤドーム移転
1997年、ナゴヤドームがオープン。本拠地を移転し新時代の一歩を踏み出す。しかし狭いナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、5年ぶりの最下位に終わる。しかしこの年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が3年振り3度目の最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフにはドームに対応した野球を目指して抜本的な改革が行なわれた。守備力と機動力を確保するためパウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一・久慈照嘉が入団。また韓国ヘテから李鍾範を獲得。更に明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団。以降、中日は打のチームから投手と守備力を活かしたチームへと生まれ変わることになる。

1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。前半戦までは5割付近をさまよっていたが、例のごとく後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに元読売の宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が最優秀防御率、川上憲伸が新人王を獲得した。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。

1999年は珍しく開幕前に本命に挙げられ、期待通りに開幕からいきなり11連勝。昨年度の投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン・リー、落合英二らとともに不動のセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝して一気にゴールテープを切り、見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、無料開放されたナゴヤドームも超満員となり、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは対戦相手の福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、また山崎の欠場が響いたのか1勝4敗で敗れ、敵将・王監督の胴上げを許した。

2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でリードの最終回、エディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。

2001年、4年振りのBクラスに終わる。この年から井端弘和がレギュラーに定着。星野監督が辞任し山田投手コーチが監督昇格。


山田・落合監督時代
2002年、谷繁元信が横浜からFA移籍。福留が松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。チームは読売戦9連敗が響き3位。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。

2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日、東京ドームでの読売戦において立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、山田自身の生真面目な性格から周囲との軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していたにも関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太、川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。また4番打者が流動的(主に立浪、アレックス)で固定出来ず、投手の好投を打線が見殺しにしてしまうケースが目立った。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。

2004年、1988年優勝時の4番打者である落合博満監督が就任。1987年以降の星野カラーを一新し、就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ「オレ竜野球」を見せた。日本シリーズでは、西武に3勝4敗で敗れ、50年ぶり2度目の日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で行われた優勝パレードでは16万人を動員した。

2005年、横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど交流戦前は好調。しかしこの年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には10ゲーム差の2位に終わった。

2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの読売戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦でロッテとも戦うため千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあるからとされている。

2006年ペナントレースでは、投手陣と堅い守り、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で、6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速マジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神タイガースの猛追に遭うものの一度も首位を明け渡すことなく、2006年10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての、いわゆる「完全優勝」であった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し、1勝4敗で敗退。52年ぶりの日本一はならなかった。

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