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日本のプロ野球について、プロ野球球団やプロ野球選手について書くブログです。

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2007-09-22-Sat 22:49:11 │EDIT

読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants,読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。また、その運営会社の事。商号は株式会社読売巨人軍。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞社。

誕生
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ戦抜軍の招待、特に前回かなわなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだが、そこに1つの問題が発生した。1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。

市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得するなどチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。

1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ戦抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合)で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。

1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、1936年に東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。この第1次遠征ではマイナーリーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、田部武雄が105盗塁を記録するなど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。

1936年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。直前の2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として名古屋金鯱軍と3試合を行う。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。

戦前期
1936年には正力の働きかけもあって国内には巨人も含めて7チームの職業野球団が結成され、「日本職業野球連盟」も結成されていた。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪タイガースに並ばれる。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。1939年には2度のマニラ遠征を行った。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたスタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。この間プロ野球においても太平洋戦争による影響は避けがたく、召集によって中心選手の離脱も相次いだほか、1940年9月13日にはユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められるなど巨人にもその影響は及んだ。遂には1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。

なお、1937年と1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と1938年秋のリーグ優勝は通算のリーグ優勝として回数にカウントされている。

戦後期
1946年のリーグ戦再開より参加。1947年には読売新聞社が経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日に黒沢俊夫が死去、戦死した沢村とともにその背番号は日本プロ野球界初の永久欠番となった。

1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、のちにセントラル・リーグを結成するチームが反対。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・阪神タイガース・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・毎日オリオンズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。

水原監督時代
1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌1951年からは同年に獲得した与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵南海を3年連続で降し日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。1952年8月8日、広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝を達成。1000勝時点の通算成績は1000勝518敗38分、勝率.659。1953年には初めての海外キャンプをサンタマリアで行う、この年は開幕から一度も2位に転落することなく優勝、シーズンを通しての1位独走優勝は球団史上唯一の記録である。

1954年の2位を挟んで、1955年から1959年まではセ・リーグ5連覇。しかし1956年、1957年、1958年の日本シリーズでは、水原と入れ替わりに巨人を退団した三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの因縁の対決で3年連続して敗退。1959年にはリーグ優勝は果たしたものの、日本シリーズでは南海ホークスに敗退して日本シリーズ4連敗。1960年には三原が監督となった大洋ホエールズに6年連続最下位からの優勝を許し、水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は1年目から本塁打・打点の二冠、打率2位と活躍した。

1959年6月25日の阪神11回戦はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて二人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)長嶋のこの日2本目となるサヨナラホームランで勝利を収めた。


川上監督時代
1961年、川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。しかし1962年にはこの年から一本足打法を始めた王貞治が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分裂後初めてのBクラスに終わる。1963年には長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではそれまで勝つことのできなかった西鉄を初めて破り日本一になる。

1963年には王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、1964年は王貞治がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、3位に終わる。この頃から巨人の3・4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂、荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、1965年には金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍するなど1965年からの日本シリーズ9連覇へと続く素地が作られていく。

1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。

1965年7月25日、中日11回戦の勝利で公式戦通算2000勝を達成、勝利投手は宮田征典、勝ち越した後の8.9回をリリーフしての勝利でありこの年に巨人首脳陣が時代に先駆けて行った投手分業制に従事した中であげた1勝だった。これ以来、宮田は8時半の男として一躍注目を集めることとなる。

この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人、大鵬、卵焼き」と並び称せられた。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。

V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れ、先進的で緻密な野球が実践されたのも効果的であった。王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄・堀内恒夫・高橋一三、渡辺秀武などの投手や、森昌彦捕手、土井正三・黒江透修内野手、柴田勲・末次利光・高田繁外野手など質の高い選手がそろっていた。

V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。


第1次長嶋監督時代
1975年、前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島の胴上げを本拠地・後楽園で許した。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で惜しくも敗れる。1977年、王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に敗れた。

1978年オフ、当時法政大学の江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年シーズン開幕直前に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく。1980年、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸を喫するとその責任を取り、長嶋監督が退任し、また王も現役を引退した。


藤田・王監督時代
1981年、藤田元司が監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が誕生。中畑清、原辰徳、篠塚利夫、西本聖ら若手が台頭し、4年ぶりのリーグ制覇を果たす。日本シリーズでは同じ後楽園球場を本拠地とする日本ハムを破って8年ぶりに日本一に輝く。1983年にもリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗れる。1982年にも0.5ゲーム差の2位となっている(大洋・長崎と中日・田尾の首位打者争いのために中日対大洋の最終戦が捨てゲームになったことは物議をかもした)。

その後1984年から1988年までの5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王監督は責任を取りこの年限りで辞任。

1989年、藤田監督が復帰。投手重視のチームを短期間に形成、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。同年の日本シリーズでは近鉄に3連敗から4連勝し、逆転で17回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビュアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤がふてぶてしい態度で「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道され、原・駒田ら巨人の選手たちはこの大逆転についてこの報道が奮起となったと述べている。

1990年、斎藤雅樹の2年連続20勝、吉村のプロ野球史上初・サヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2年連続のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは全盛期の「黄金期西武」を相手に4連敗を喫する。1991年は4位、1992年はヤクルト・阪神・広島との接戦の結果2位と2年連続V逸。この年限りで藤田監督が勇退した。


第2次長嶋監督時代
1993年、長嶋監督が復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を獲得。この松井がこの後、1990年代から2000年代前期にかけてのチームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても果たした。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント(FA)制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を感じた駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。

1994年、前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日に追いつかれ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦(ナゴヤ球場)、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は注目されてマスコミでも大きく報道され、長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。その後の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を破り18回目の日本一に輝く。

1995年は近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島の川口和久、ヤクルトの広澤克実をFAで獲得、また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエル、ミネソタ・ツインズのシェーン・マックを獲得したものの3位に低迷。逆転優勝を目指して長嶋監督が言った言葉「メークドラマ」は選手の奮起を促した。同年の最終戦で原が現役を引退。巨人一筋15年の現役生活にピリオドを打つ。

1996年、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーや松井の活躍等で、リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。同年のオリックスとの日本シリーズでは3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。

1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強力な長距離コンビとして期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し夏場まで最下位に沈むなど大苦戦。最終的には4位でシーズンを終了。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団。

1998年は前半は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベスの危険球退場でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治、二岡智宏が入団。

1999年、村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、途中獲得したドミンゴ・マルティネスの活躍もあり2位に終わる。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。

2000年は、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋を擁した打線はシーズンで投打ともに圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち優勝を決めた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。

2001年は正捕手候補として阿部慎之助が入団。シーズン終盤までヤクルトと優勝を争い2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。それと同時に三本柱の槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして三本柱を支えた村田真一捕手が引退した。監督の後任は、原ヘッドコーチ。


第1次原・堀内監督時代
2002年、原辰徳監督が就任。原と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を建て直し、1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初の4連勝で20回目の日本一に輝いた。シーズンオフに松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。

2003年、松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原は守備位置の問題を解決できず、鹿取は一任されていた投手陣を整備できず3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。そして9月26日、原監督は責任を取り辞任した。

2004年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズを獲得し、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を無償トレードで獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などの他球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録(それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本であった)を樹立。しかし、防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学・一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。

2005年、ポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、開幕時レギュラーだった選手が軒並み成績不振に終わり序盤から低迷、8年ぶりにBクラスの5位に終わり、それに伴う観客数や視聴率の低迷により、親会社の日本テレビでも中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターの名前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表した。


第2次原監督時代
第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(同)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に編成から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。

2006年はチーム方針として2005年にワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスばりの「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初のベストメンバーを組めていた時期には首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストを経て獲得、広島の木村拓也を交換トレードで獲得、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを獲得するなど建て直しを図ったが、結果として最も戦力不足に悩まされた6~7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。

この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁コーチャーとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAで、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。

2007年5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初めてとなる球団通算5000勝を達成した。また2軍も5月29日のヤクルト戦でイースタンリーグ史上初の通算2000勝を達成した。

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2007-09-21-Fri 23:16:43 │EDIT

東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。東京都を保護地域とし、一軍は都内新宿区にある明治神宮野球場、二軍は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場を専用球場としている。

国鉄・サンケイ時代
1949年シーズンオフ、リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立の煽りを受け各地の国鉄鉄道管理局の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化しており、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案。当時の加賀山之雄総裁が大の野球好きであったことも、参入実現の一要因となった。日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会が主体となり、財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現JTB)などの企業により「国鉄野球株式会社」を設立。球団名を国鉄スワローズとした。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道管理局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態で、アマチュア野球では強豪の鉄道管理局野球部もプロでは通用せず、打てばゲッツー守ればエラーという散々な状態。エース・金田正一の投球がチーム成績を左右した。金田の活躍で最下位こそ少なかったが常に4位、5位。順位こそを振るわなかったものの、こと巨人戦では互角かそれ以上の試合を見せ、後楽園の国鉄・巨人戦は関東で最も人気のある対戦であった。

1961年に初めて3位になりAクラス入り。翌年の1962年、年々増大する経営費のために経営主体は鉄道協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政であった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、更に前年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。同年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョンと結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイに移る。

1964年、主催試合を系列のフジテレビで中継するために、本拠地を後楽園球場(巨人のグループ会社である日本テレビのみ中継権が与えられていたため)から神宮球場へ移転する。同年オフ、当時の林義一監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エース・金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(朝日新聞、巨人の親会社・読売新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、両者とも平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイへ経営権を全て譲渡し経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。

1965年5月10日、産経新聞へ正式に球団を譲渡し球団名をサンケイスワローズに変更。

1966年、少年野球ファン開拓のため鉄腕アトムをペットマークに使用しチーム名をサンケイアトムズへ改称。同年ヤクルト本社が株式を取得し球団運営に参加。

1969年、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと改称、実質経営権はヤクルトが握った。

1970年1月7日、ヤクルトが公式に単独で経営権を持ちヤクルトアトムズ

ヤクルト時代
1970年、92敗と歴史的大敗を喫し、ぶっちぎりの最下位。尚、セ・リーグでは2003年の横浜ベイスターズが94敗を喫すまではシーズン90敗達成球団が出てこなかった。

1971年に三原脩を監督に招聘するが3年連続Bクラス。

1973年11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。チーム名をヤクルトスワローズに変更。

1976年5月13日より荒川博前監督に代わり広岡達朗が監督に就任。なお、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しでこれはセ・リーグワースト記録である。(日本記録は福岡ソフトバンクホークスの南海時代の1978年からダイエー時代の1993年にかけての16年連続)

1978年、打者では若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエル、投手では松岡弘、安田猛、鈴木康二朗らが活躍し球団創設初優勝・日本一を達成した。しかし1979年はオフの補強に失敗し、森昌彦ヘッドコーチ解任・広岡監督途中休養もあって、一転して最下位。

1980年、武上四郎監督が就任。就任初年にチームは2位へ浮上するも、以後は低迷した。

1984年、土橋正幸監督が就任。1985年・1986年と2年連続最下位に甘んじるが、広沢克己・荒木大輔が台頭。

1987年、関根潤三監督を招聘。チームは低迷したが池山隆寛・栗山英樹ら若手が成長。

1990年、野村克也監督が就任。野村就任と同時に正捕手となった古田敦也の活躍もあって1992年・1993年とリーグ2連覇、1993年は日本一。1995年、1997年にも日本一に輝くなど、強豪チームへと成長した。野村監督は1998年限りで勇退。

1999年、若松勉監督が就任。2001年に日本一となった。その後も2002年~2004年も3位以上を保ち、4年連続でAクラスになった。4年連続でAクラスを確保したのは、球団史上初の出来事である(ただし2003年は、前年順位でヤクルトを上回る巨人と同率3位であったため開幕権を得られず、2005年の開幕はビジターで行われた)。


東京ヤクルト時代
2005年シーズンの終了をもって若松監督が勇退。2006年からは、古田敦也が選手兼任監督として指揮を執ることになり、神宮球場をヤクルトファンで埋め尽くす事を目的とする「F-PROJECT」を立ち上げた。更にアメリカから復帰した石井一久、高津臣吾、木田優夫を獲得。

2005年12月19日のプロ野球実行委員会において、古田の悲願であった「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。これを機に東京都との地域密着を図るチームとして再出発し、地域密着の基本である学校訪問や、神宮周辺の青山商店街で試合の半券をもって行くと特典が受けられる、といったサービスを行っている。また、同じ東京(東京ドーム)を本拠地とする読売ジャイアンツとの直接対決を東京ダービーと呼ぶ向きもある。しかし、マスコミ等では現在でも「東京」を省いて単に「ヤクルト」と呼称される事が多い。(「千葉」ロッテ、「福岡」ソフトバンク、「北海道」日本ハム、「東北」楽天と同様。)

2006年も前年同様、リック・ガトームソンのノーヒットノーラン等の活躍で交流戦2位になるなど、交流戦で順位を上げたが、交流戦終了後ほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。
8月から東京のUHF、東京メトロポリタンTV(TOKYO MX)で今年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが近年1試合も中継が無い年もあった。解説はOBの角盈男で以前は平野謙も担当であったが同氏が北海道日本ハムの打撃コーチ就任の為、前田益穂(中日・ロッテ出身、台湾野球元監督)が務める。

2007年9月、古田監督の現役引退、球団からも退団することが発表されたが、神宮球場が両翼10mの改修工事もあり、新監督、新体制が注目される。

2007-09-20-Thu 23:18:37 │EDIT

横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。球団事務所は本拠地の横浜スタジアムの近くにある、関内新井ビル7階(横浜市中区尾上町)。保護地域は神奈川県。2軍の球団名は湘南シーレックス。2軍の本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。練習所及び合宿所は、横須賀市の横浜ベイスターズ総合練習場。

下関・大阪=洋松・川崎時代
元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。

1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。

1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。

1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。

1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。

1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは毎日大映オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。

1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。

1977年、オーナーであった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。


横浜大洋時代
1978年、国土計画の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。これにより川崎時代よりもファンが増加したとされる。この年、国土計画の持つ大洋の球団株式は、クラウンライターライオンズ買収のためニッポン放送とTBSへ2:1の割合で売却された。これより先2001年まで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。

1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋招聘は失敗した。

1982年のシーズン終了間際の試合で、打率1位であった長崎慶一(当時「啓二」)に6厘差で迫っていた田尾安志を5打席連続敬遠し、長崎を首位打者にしたものの、チームとしては先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなど大差で敗れ、その結果田尾の所属する中日ドラゴンズの優勝が決まった。ちなみにこの試合の前は中日と巨人が並んだ状態であり、大洋が勝利した場合は巨人が優勝だった為、巨人ファンからは「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は故意敗退行為だ」と連盟に試合の無効を主張する抗議(結論は却下)が行われ、巨人ファン以外からも「リーグ優勝が決まる試合でチームの勝利よりも個人の記録を優先させるのはどうか」という苦言が集中した。

1985年、近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目されたものの、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。

1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、成績は振るわず。

1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。またこの時、中部藤次郎の死去により、弟中部慶次郎が大洋漁業社長となり、球団のオーナーにも就任した。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。が、中部はかつて大洋漁業の主力事業であった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示し、その結果、愛称は「ベイスターズ」となった。(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もある。)余談だが翌年、訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心であった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしている。


横浜ベイスターズ時代
1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。また、高木豊・屋鋪要・市川和正ら主力選手が大量解雇され、駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。

1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。

1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。しかし、近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。また、鈴木尚典が3番レフトに定着。後のマシンガン打線を構成する主要なメンバーがほぼ出揃った。

1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。

1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。 しかし、勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。 大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。

1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。
 
本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。

2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。

2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、ルールに救われる形で5年連続のAクラス(3位)を確保する(この年の順位に関しては後述)が、これは「日本プロ野球史上最もおかしいAクラス」という声が少なくない。
シーズンオフに親会社(筆頭株主)がマルハからTBS(東京放送)へ移行し、オーナーが当時の社長砂原幸雄となった。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、TBSラジオで巨人戦以外の週末のデーゲームをTHEベースボール・ベイスターズと題して放送を開始した(しかし、同時間帯のレギュラー番組の好調により1シーズンで終了)。

2002年、開幕から低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目であったが、この年限りで事実上の解任となる。

2003年、山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、他球団や他球団のファンからは完全にお荷物扱いされる。

2004年、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退し45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。

2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。

2006年、共に福岡県の東福岡高校出身である村田修一・吉村裕基の台頭があったものの、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、再び底辺をさまよう。球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、またしても2年で監督が交代することとなった。シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁をソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。また、ここ数年毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。さらには、この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が減俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激変のオフとなった。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。

2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。前年FA移籍した門倉健の人的補償として、215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。
1月15日、産業能率大学と業務提携し調印することとなる。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
3月30日~4月13日、開幕から黒星と白星が交互に続く所謂「ぬけぬけ」が12試合続いた。開幕からとなるとこれはプロ野球新記録。

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